人物

ヴァリニャーノ

Alessandro Valignano
AD1539年 – AD1606年1月20日(享年67・推定)
イエズス会重要度 4

概要

ナポリ王国の貴族、パドヴァで法学。イエズス会の東インド巡察師。日本に3度。「日本人は礼儀正しく、ヨーロッパ人が野蛮に見える」。宣教師に日本の作法を守らせ、日本人を司祭に育てる方針。安土のセミナリヨ、天正遣欧使節、活字印刷機(キリシタン版)。秀吉に謁見してインド副王の使節を名乗った。マカオで死んだ。

関わったできごと(1)

天正遣欧少年使節AD1582年2月20日(天正10年1月28日) · 送った

本文

アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、イエズス会の巡察師として三度日本を訪れ、戦国時代の日本のキリスト教の形を決めた人物である。巡察師とは、総長の代理として各地の布教を視察し、改める権限を持つ役職で、彼が受け持ったのは、アフリカの東岸からインド、中国、日本に至る広大な範囲だった。ヨーロッパのやり方を押しつけるのではなく、相手の国の言葉と作法に合わせてキリスト教を伝えるという彼の方針は、「適応主義」と呼ばれる。

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(1599年)
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(1599年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · CC BY 4.0

1539年、南イタリアのナポリ王国の町キエーティで、貴族の家に生まれた。パドヴァ大学で法学を学んで博士号を取り、聖職者として出世の道を歩み始めたが、若いころヴェネツィアで、口論の末に女性を傷つけたとして投獄されたこともある。1566年、ローマでイエズス会に入った。1540年の創立(イエズス会の創立)から四半世紀あまり、会は創立者イグナティウス・デ・ロヨラの死後も急速に広がり、フランシスコ・ザビエルが日本に伝えたキリスト教(ザビエルの来日)も、九州を中心に信徒を増やしていた。

1573年、34歳のヴァリニャーノは東インド巡察師に任じられた。インドのゴアやマカオを経て、1579年7月、肥前の口之津に着いた。そこで目にした日本の教会の実情は、彼を驚かせた。当時の日本布教長カブラルは、日本人を見下し、宣教師に日本語を学ばせず、日本人を司祭に育てることにも反対していた。ヴァリニャーノは逆の考えだった。日本人は礼儀正しく理性的で、ヨーロッパ人のほうがむしろ粗野に見える、と彼は報告に書いている。

17世紀の長崎を描いた『南蛮人来朝図』屏風
17世紀の長崎を描いた『南蛮人来朝図』屏風Wikimedia Commons Public domain

彼は日本の教会を作り直した。宣教師には日本語を学ばせ、日本の礼儀作法に従うよう求め、そのための細かな心得書を作った。客のもてなし方、身分に応じた言葉遣い、食事や入浴の作法までが書かれていた。日本の寺院の組織を手本に、宣教師にも身分の序列を設けた。カブラルは職を解かれ、日本を去った。

日本人の聖職者を育てるため、ヴァリニャーノは学校を開いた。少年たちを教える初等の神学校(セミナリヨ)を安土と有馬に、修道士の修練院を豊後の臼杵に、高等の学院(コレジオ)を府内に置いた。生徒たちはラテン語とともに日本の古典も学び、西洋の楽器を習った。同じころ、キリシタン大名の大村純忠は長崎の港をイエズス会に寄進し、ヴァリニャーノはこれを受け入れた。

1581年、彼は京で織田信長に会い、安土城にも招かれた。信長は彼を厚くもてなし、狩野永徳に描かせた安土城と城下の屏風を贈った。この屏風はのちにローマの教皇に届けられたが、その後の行方は分からない。ヴァリニャーノの一行には、アフリカ出身の従者がいた。信長はその肌の色に驚き、譲り受けて家臣にした。弥助と呼ばれた人物である。

1582年、ヴァリニャーノは、九州のキリシタン大名の名代として四人の少年をローマへ送る使節を企てた(天正遣欧少年使節)。ヨーロッパに日本を知らせ、少年たちには帰国してヨーロッパの偉大さを日本に伝えさせるという狙いだった。彼自身はゴアで役目を受けて同行を取りやめたが、1590年、帰ってきた少年たちを連れて再び日本に来た。このとき日本はすでに大きく変わっていた。信長は本能寺で倒れ、天下を取った豊臣秀吉は1587年にバテレン追放令を出していた。ヴァリニャーノは宣教師としてではなく、インド副王の使節という立場で、1591年に京の聚楽第で秀吉に謁見した。少年たちは秀吉の前で西洋の楽器を奏でたという。

天正遣欧少年使節に関わる図版:First Japanese Embassy to Europe 1586
天正遣欧少年使節Wikimedia Commons German 'newspaper' Newe Zeyttung · Public domain

この二度目の来日でヴァリニャーノが持ち込んだのが、ヨーロッパの活版印刷機である。九州の加津佐や天草で、ローマ字や日本の文字で宗教書や辞書、さらに『平家物語』や『伊曽保物語』(イソップ物語)などが刷られた。これらはキリシタン版と呼ばれ、当時の日本語の発音を知る貴重な手がかりになっている。グーテンベルクの技術(グーテンベルクの活版印刷)が、初めて日本で使われたのである。

1597年、長崎で二十六聖人の殉教が起きた。翌1598年、ヴァリニャーノは三度目の来日を果たし、秀吉の死後の比較的穏やかな数年間を日本で過ごして、1603年に日本を離れた。

ヴァリニャーノの適応主義は、中国でも試された。彼はマカオに中国語を学ぶ拠点を作り、イタリア人の宣教師マテオ・リッチらを中国本土へ送り出した。リッチは中国の学者の服を着て儒教の言葉でキリスト教を説き、明の宮廷にまで入っていった。1606年1月、ヴァリニャーノはマカオで死んだ。66歳だった。

日本にヴァリニャーノが築いた学校と印刷所は、1614年のキリシタン禁教令によって閉ざされ、育てられた日本人の司祭や修道士の多くは国外へ追われるか、殉教した。中国での適応のやり方も、のちに他の修道会から、キリスト教を異教の儀礼と混ぜていると批判され、18世紀に教皇によって禁じられた。その方針がカトリック教会で改めて見直されるのは、20世紀になってからである。

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