スコーネのニシン市
概要
毎年の秋、デンマーク領だったスコーネの沖には、ニシンの大群が押し寄せた。浜には各地の商人の小屋が建ち並び、何万人もの人が集まる。ニシンは脂が多く、すぐに傷む。リューベックの商人たちは、リューネブルクの塩を運んできて、捕れたその日のうちに腹を裂き、樽に塩と交互に詰めた。樽の大きさと詰め方には決まりがあり、印を押した樽は中身を開けずに売り買いされた。四旬節に肉を断つキリスト教徒にとって、塩漬けのニシンは欠かせない食べ物だった。塩と魚と樽を押さえたことが、ハンザの商人たちの力になった。
場所
55.42°N 12.85°E · スウェーデン・スコーネ地方
本文
スコーネは、いまのスウェーデンの南の端にあたる地方である。中世にはデンマーク王国の領土で、デンマークの島々とは狭い海峡(エーレスンド)を挟んで向かい合っていた。その南西の端、細長く突き出した半島に、スカノールとファルステルボという二つの小さな町がある。
毎年の夏の終わりから秋にかけて、この沖にはニシンの大群が押し寄せた。産卵のために集まる群れで、網を入れればすくい上げられるほどだった、と伝えられる。冷たい海の魚だが、脂がよく乗っていて、身がやわらかい。十三世紀から十五世紀にかけて、このニシンをめぐって、北ヨーロッパで最も大きな市の一つが毎年この浜に立った。

市が開かれるのは、おおよそ八月から十月までの二か月ほどだった。浜には、リューベック、ハンブルク、ダンツィヒ、オランダの町々など、各地の商人の町がそれぞれ自分の区画を持ち、小屋や倉を建てた。区画には自分の町の法が通り、自分の町の代官が置かれた。漁師、樽屋、塩を扱う者、魚を捌いて詰める女たち、それに宿屋や酒場、教会までがそろい、秋の間だけ浜に一つの町が現れた。集まった人の数は数万に達したとも言われる。場所を貸し、関税を取るデンマーク王にとっては、大きな収入源だった。
ニシンには一つ困ったところがある。脂が多いので、すぐに傷むのである。捕って一日も置けば、もう売り物にならない。だから処理はその日のうちに済ませなければならなかった。浜に揚がったニシンは、すぐに腹を裂いて内臓の一部を取り除かれ、樽に塩と交互に並べて詰められた。しばらく寝かせると、魚から水が出て身が締まる。それをもう一度、別の樽に塩と詰め直す。こうして樽詰めの塩漬けニシンは、何か月も持つ品物になった。

大量の魚を漬けるには、大量の塩がいる。その塩を運んできたのが、リューベックの商人たちだった。リューベックの南、内陸のリューネブルクには、地下から湧く塩水を煮詰めて作る良質の塩があった。リューベックの商人はこれを陸路で北へ運び、船に積んでスコーネへ渡った。1398年には、リューネブルクから水路でリューベックまで塩を運べる運河も通じている。
樽にも細かい決まりがあった。樽の大きさ、魚の詰め方、魚の質。詰め終わった樽は検められ、町の印が押される。印の付いた樽は、いちいち蓋を開けて中身を確かめなくても、そのまま売り買いされた。印が品質の保証になり、樽が一つの単位になって、遠くの町まで信用で取引できた。

なぜ、それほどのニシンが要ったのか。キリスト教の暦には、肉を断つ日が多かった。毎週の金曜日、復活祭の前の四十日間にあたる四旬節、それにさまざまな祝日の前日。そうした日でも、魚なら食べてよい。海から遠い内陸の町や修道院に魚を届けるには、塩漬けにするか干すしかない。塩漬けのニシンは、ヨーロッパの庶民の断食の日の食卓を支えていた。
塩と魚と樽を押さえたことが、北ドイツの商人たちの力になった。彼らはやがて都市どうしで結びつき、ハンザ同盟として知られるようになる。その力は、デンマーク王との争いで試された。十四世紀の半ば、デンマーク王ヴァルデマー4世がスコーネを取り戻し、ハンザの商人の特権を脅かすと、ハンザの都市は同盟を組んで戦った。1370年に結ばれたシュトラールズントの和約で、ハンザは商人の特権を確かめただけでなく、スコーネの城をしばらくの間預かることになった。ニシンの浜を守るために、商人の町々が一つの国の王を屈服させたのである。
だが十五世紀の終わりから十六世紀にかけて、ニシンの群れはスコーネの沖へ来なくなっていった。なぜ群れが移ったのかは、海の水温や塩分の変化が考えられているものの、よく分かっていない。代わって伸びたのが、北海のオランダの漁師だった。彼らは大きめの漁船で沖に出て、捕ったニシンを船の上で捌いて樽に詰め、そのまま港へ持ち帰った。浜に上がる必要がなくなったのである。船上で手早く処理するやり方を考えた漁師の名も伝わっているが、それは後世の伝説とされる。北の海の魚の商いの中心はオランダへ移り、ハンザの商人の力は傾いていく。十七世紀には、アムステルダムが北ヨーロッパの商いの中心になる(アムステルダム取引所)。
食べ物を保たせる技術は、そのまま遠くへ売る技術でもある。保たせられなければ、浜で食べるしかない。保たせられれば、ヨーロッパ中の食卓に売れる。大西洋の向こうでは、同じころ、脂の少ないタラを塩と風で干して遠くへ運ぶ漁が始まっていた(塩ダラ)。ニシンの群れは自分から去ったが、タラは人が獲り尽くすことになる。