できごと

スコーネのニシン市

Scania Market
AD14世紀
重要度 3
シベリアの諸集団キプチャク汗国イル汗国リャザン公国マムルーク朝ノヴゴロド公国サーミノルウェー神聖ローマ帝国ハフス朝ポーランド王国フランス王国English territoryセルジューク朝スウェーデンカスティーリャ王国ハンガリー王国モロッコTeutonic Knights東ローマ帝国アラゴン王国ブルガール可汗国デンマークシチリア王国ポルトガルRaškaリトアニア大公国スコットランドオスマン帝国ヴェネツィア共和国AD14世紀スカーノル(スコーネ)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD14世紀の版図を描いています(30勢力)。

概要

毎年の秋、デンマーク領だったスコーネの沖には、ニシンの大群が押し寄せた。浜には各地の商人の小屋が建ち並び、何万人もの人が集まる。ニシンは脂が多く、すぐに傷む。リューベックの商人たちは、リューネブルクの塩を運んできて、捕れたその日のうちに腹を裂き、樽に塩と交互に詰めた。樽の大きさと詰め方には決まりがあり、印を押した樽は中身を開けずに売り買いされた。四旬節に肉を断つキリスト教徒にとって、塩漬けのニシンは欠かせない食べ物だった。塩と魚と樽を押さえたことが、ハンザの商人たちの力になった。

場所

スカーノル(スコーネ)
55.42°N 12.85°E · スウェーデン・スコーネ地方

本文

スコーネは、いまのスウェーデンの南の端にあたる地方である。中世にはデンマーク王国の領土で、デンマークの島々とは狭い海峡(エーレスンド)を挟んで向かい合っていた。その南西の端、細長く突き出した半島に、スカノールとファルステルボという二つの小さな町がある。

毎年の夏の終わりから秋にかけて、この沖にはニシンの大群が押し寄せた。産卵のために集まる群れで、網を入れればすくい上げられるほどだった、と伝えられる。冷たい海の魚だが、脂がよく乗っていて、身がやわらかい。十三世紀から十五世紀にかけて、このニシンをめぐって、北ヨーロッパで最も大きな市の一つが毎年この浜に立った。

中世スコーネのニシン漁(1555年刊の図)
中世スコーネのニシン漁(1555年刊の図)Wikimedia Commons Olaus Magnus (1490-1558) · Public domain

市が開かれるのは、おおよそ八月から十月までの二か月ほどだった。浜には、リューベック、ハンブルク、ダンツィヒ、オランダの町々など、各地の商人の町がそれぞれ自分の区画を持ち、小屋や倉を建てた。区画には自分の町の法が通り、自分の町の代官が置かれた。漁師、樽屋、塩を扱う者、魚を捌いて詰める女たち、それに宿屋や酒場、教会までがそろい、秋の間だけ浜に一つの町が現れた。集まった人の数は数万に達したとも言われる。場所を貸し、関税を取るデンマーク王にとっては、大きな収入源だった。

ニシンには一つ困ったところがある。脂が多いので、すぐに傷むのである。捕って一日も置けば、もう売り物にならない。だから処理はその日のうちに済ませなければならなかった。浜に揚がったニシンは、すぐに腹を裂いて内臓の一部を取り除かれ、樽に塩と交互に並べて詰められた。しばらく寝かせると、魚から水が出て身が締まる。それをもう一度、別の樽に塩と詰め直す。こうして樽詰めの塩漬けニシンは、何か月も持つ品物になった。

エーレスンド海峡の最も狭い部分にあるデンマークの城、ヘルシンボリ(上)とヘルシンオア(下)。1500年代の描写
エーレスンド海峡の最も狭い部分にあるデンマークの城、ヘルシンボリ(上)とヘルシンオア(下)。1500年代の描写Wikimedia Commons Georg Braun · Public domain

大量の魚を漬けるには、大量の塩がいる。その塩を運んできたのが、リューベックの商人たちだった。リューベックの南、内陸のリューネブルクには、地下から湧く塩水を煮詰めて作る良質の塩があった。リューベックの商人はこれを陸路で北へ運び、船に積んでスコーネへ渡った。1398年には、リューネブルクから水路でリューベックまで塩を運べる運河も通じている。

樽にも細かい決まりがあった。樽の大きさ、魚の詰め方、魚の質。詰め終わった樽は検められ、町の印が押される。印の付いた樽は、いちいち蓋を開けて中身を確かめなくても、そのまま売り買いされた。印が品質の保証になり、樽が一つの単位になって、遠くの町まで信用で取引できた。

1400年頃のハンザ同盟の勢力範囲
1400年頃のハンザ同盟の勢力範囲Wikimedia Commons Credited as London: Wm Heinemann / Friedrich Graf · Public domain

なぜ、それほどのニシンが要ったのか。キリスト教の暦には、肉を断つ日が多かった。毎週の金曜日、復活祭の前の四十日間にあたる四旬節、それにさまざまな祝日の前日。そうした日でも、魚なら食べてよい。海から遠い内陸の町や修道院に魚を届けるには、塩漬けにするか干すしかない。塩漬けのニシンは、ヨーロッパの庶民の断食の日の食卓を支えていた。

塩と魚と樽を押さえたことが、北ドイツの商人たちの力になった。彼らはやがて都市どうしで結びつき、ハンザ同盟として知られるようになる。その力は、デンマーク王との争いで試された。十四世紀の半ば、デンマーク王ヴァルデマー4世がスコーネを取り戻し、ハンザの商人の特権を脅かすと、ハンザの都市は同盟を組んで戦った。1370年に結ばれたシュトラールズントの和約で、ハンザは商人の特権を確かめただけでなく、スコーネの城をしばらくの間預かることになった。ニシンの浜を守るために、商人の町々が一つの国の王を屈服させたのである。

だが十五世紀の終わりから十六世紀にかけて、ニシンの群れはスコーネの沖へ来なくなっていった。なぜ群れが移ったのかは、海の水温や塩分の変化が考えられているものの、よく分かっていない。代わって伸びたのが、北海のオランダの漁師だった。彼らは大きめの漁船で沖に出て、捕ったニシンを船の上で捌いて樽に詰め、そのまま港へ持ち帰った。浜に上がる必要がなくなったのである。船上で手早く処理するやり方を考えた漁師の名も伝わっているが、それは後世の伝説とされる。北の海の魚の商いの中心はオランダへ移り、ハンザの商人の力は傾いていく。十七世紀には、アムステルダムが北ヨーロッパの商いの中心になる(アムステルダム取引所)。

食べ物を保たせる技術は、そのまま遠くへ売る技術でもある。保たせられなければ、浜で食べるしかない。保たせられれば、ヨーロッパ中の食卓に売れる。大西洋の向こうでは、同じころ、脂の少ないタラを塩と風で干して遠くへ運ぶ漁が始まっていた(塩ダラ)。ニシンの群れは自分から去ったが、タラは人が獲り尽くすことになる。

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