天正遣欧少年使節

概要
ヴァリニャーノが、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代として、13〜14歳の4人を長崎からローマへ送った。伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン。8年。リスボン、マドリードでフェリペ2世、ローマで教皇グレゴリウス13世。1590年に帰ると、秀吉が宣教師を追放していた。マンショは長崎で病死、ミゲルは棄教、マルチノはマカオへ追放、ジュリアンは1633年に穴吊りで殉教した。
場所
32.75°N 129.88°E · 長崎県
関わった人(1)
ヴァリニャーノAD1539年–AD1606年1月20日 · 送った本文
イエズス会の巡察師ヴァリニャーノは、1579年に日本へ来た。ザビエルの来日から30年、九州を中心に信者は十万を超えたと報告されていたが、宣教師の多くは日本の言葉も習慣も学ぼうとせず、日本人を下に見ていた。ヴァリニャーノはこれを改め、日本人の司祭を育てることを決める。安土と有馬に神学校(セミナリヨ)、臼杵に修練院、府内に大学(コレジオ)を置いた。そのうえで、ヨーロッパの教会と王たちに日本の布教の成果を見せて援助を得ること、日本の少年にヨーロッパの壮麗さを見せて、帰ってから語らせることを考えた。
選ばれたのは、有馬のセミナリヨで学ぶ4人の少年だった。大友宗麟の名代として、その縁者の伊東マンショ。大村純忠と有馬晴信の名代として、純忠の甥で晴信の従弟にあたる千々石ミゲル。副使として原マルチノと中浦ジュリアン。いずれも13、14歳ほどである。もっとも、宗麟の書状は宣教師の側で用意されたものではないかという指摘もあり、大名たちがどこまで関わったかには議論がある。1582年2月20日、一行は長崎を出た。京都で本能寺の変が起きる4か月前だった。

旅は長かった。季節風を待ってマカオに10か月近くとどまり、マラッカ、インドのコーチンを経てゴアへ。ヴァリニャーノはここでインド管区長に任じられて残り、少年たちは別の神父に付き添われて喜望峰を回った。1584年8月、リスボンに着く。11月、マドリードでフェリペ2世に謁見した。王は少年たちを手厚くもてなしたという。1585年3月、ローマに入り、教皇グレゴリウス13世に迎えられた。老いた教皇は涙を流したと伝えられるが、謁見の18日後に死に、少年たちは次の教皇シクストゥス5世の戴冠式に列した。ローマの市民権を授けられ、フィレンツェ、ヴェネツィア、ミラノと、行く先々で歓迎を受けた。2014年には、このときミラノで描かれた伊東マンショの肖像画(ドメニコ・ティントレットの作とされる)が見つかっている。
1590年7月、一行は長崎に戻った。出発から8年5か月。持ち帰ったものの中に、西洋式の活版印刷機があった。これで刷られた本は「キリシタン版」と呼ばれ、日本で最初の活字による印刷となった(グーテンベルクの活版印刷から130年あまり後のことである)。だが日本は変わっていた。信長は死に、天下を握った豊臣秀吉は、1587年にバテレン追放令を出していた。1591年3月、4人はヴァリニャーノとともに聚楽第で秀吉に会い、西洋の楽器を演奏した。秀吉は気に入って三度弾かせた、と伝えられる。

4人はその年、イエズス会に入った。しかし行く手は厳しかった。1597年には長崎で二十六聖人の殉教が起き、1614年には全国でキリスト教が禁じられる。伊東マンショは司祭となり、1612年に長崎で病死した。千々石ミゲルは1601年ごろ会を去り、棄教したと言われてきた。ただ2017年、長崎県諫早市で彼の墓とされる石の下からロザリオの一部とみられる品が見つかり、信仰を持ち続けたのではないかという見方も出ている。原マルチノは司祭となって翻訳や印刷に力を注ぎ、1614年の追放でマカオへ渡り、1629年にそこで死んだ。
中浦ジュリアンは国内に潜伏し、20年近く信者のもとを回った。1632年に捕らえられ、翌1633年、長崎の西坂で穴吊りの刑に処された。刑の場で「私はローマへ行った中浦ジュリアン神父である」と名乗ったと伝えられる。2008年、カトリック教会は彼を福者に列した。

少年たちが見たヨーロッパは、日本では語り継がれなかった。帰国の翌年には朝鮮出兵が始まり、やがて鎖国の完成へ向かう。使節の記録は、むしろヨーロッパの側に多く残った。日本人がヨーロッパの王と教皇の前に立った最初の出来事として、いまは教科書に載っている。