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Event / できごと

天正遣欧少年使節

Tenshō embassy
AD1582年2月20日(天正10年1月28日)
重要度 4

概要

ヴァリニャーノが、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代として、13〜14歳の4人を長崎からローマへ送った。伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン。8年。リスボン、マドリードでフェリペ2世、ローマで教皇グレゴリウス13世。1590年に帰ると、秀吉が宣教師を追放していた。マンショは長崎で病死、ミゲルは棄教、マルチノはマカオへ追放、ジュリアンは1633年に穴吊りで殉教した。

場所

長崎
32.75°N 129.88°E · 長崎県

関わった人(1)

ヴァリニャーノAD1539年–AD1606年1月20日 · 送った

本文

ヴァリニャーノは1579年に日本に来て、3年いて、日本の教会を作り直した。日本人の司祭を育てるための神学校(セミナリヨ)を安土と有馬に、修練院を臼杵に、大学(コレジオ)を府内に。そして、ヨーロッパの教会と王に日本を見せ、日本の少年にヨーロッパを見せる、と考えた。

キリシタン大名の大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名代として、4人。伊東マンショ(宗麟の縁戚、13歳)、千々石ミゲル(純忠の甥、晴信の従弟、13歳)、原マルチノ(13歳)、中浦ジュリアン(14歳)。有馬のセミナリヨの生徒。1582年2月20日、長崎を出た。本能寺の4か月前。

マカオ10か月、マラッカ、コーチン、ゴアでヴァリニャーノは残り、少年たちは1584年8月、リスボン。エヴォラ、マドリード。フェリペ2世に謁見。1585年3月、ローマ。教皇グレゴリウス13世が謁見の18日後に死に、シクストゥス5世の戴冠式に出た。ローマの市民権。フィレンツェ、ヴェネツィア、ミラノ。活字印刷機と楽器と地図を持って、1590年7月、長崎に戻った。8年5か月。

秀吉は1587年に伴天連追放令を出していた。1591年、聚楽第で秀吉に会い、ジョスカン・デ・プレを演奏した。秀吉は3度弾かせた。

4人とも1591年にイエズス会に入った。マンショは司祭になって、1612年、長崎で病死。ミゲルは1601年頃に会を出て、棄教した、と言われる(近年、キリシタンのまま死んだ説がある)。マルチノは司祭、1614年の追放でマカオへ、そこで死んだ。ジュリアンは司祭、潜伏して布教を続け、1633年、長崎の西坂で穴吊りの刑で死んだ。「私はローマへ行った中浦ジュリアン神父だ」と言った。2008年、列福。

活字印刷機は、日本で最初の活版印刷「キリシタン版」を刷った。

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