できごと

カルヴァンのジュネーヴ

Calvin's Geneva
AD1541年
重要度 4
カルヴァンのジュネーヴに関わる図版:CalvinStatue
CalvinStatue Wikimedia Commons Serein · Public domain

概要

長老会が市民の生活を監督する町を作った。救われる者は初めから決まっている、だから与えられた仕事に励む。その考えが商人と職人に広がる。

場所

ジュネーヴ(宗教改革期)
46.20°N 6.14°E · スイス

関わった人(1)

ジャン・カルヴァンAD1509年7月10日–AD1564年5月27日 · 主導

本文

ジュネーヴは、16世紀のはじめまで、司教とサヴォワ公の支配を受ける町だった。1530年代、市民はベルンの後ろ盾を得てサヴォワ公と司教を追い出し、1536年5月、市民の総会で宗教改革を受け入れると決めた。ミサは廃止され、修道院は閉じられた。だが、古い教会を壊したあと、新しい教会をどう作るかは決まっていなかった。

その年の夏、フランスから逃れてきた27歳のジャン・カルヴァンが、一晩だけ泊まるつもりでこの町に立ち寄った。春に『キリスト教綱要』を出したばかりの若い神学者で、静かに研究できるストラスブールへ向かう途中だった。町で改革を進めていた説教者ギヨーム・ファレルがこれを聞きつけ、とどまって手伝えと迫った。断ると、学問を口実に神の仕事を拒むなら、神はその静けさを呪うだろう、と言った。カルヴァンはのちに、神が天から手を伸ばして自分を引き止めたように感じた、と回想している。

ジャン・カルヴァンの肖像
ジャン・カルヴァンの肖像Wikimedia Commons Anonymous ( France ) Unknown author · Public domain

最初の試みは失敗した。カルヴァンとファレルは、信仰の告白を全市民に誓わせ、ふさわしくない者には聖餐を拒もうとした。市の参事会は、教会が市民を裁くことを嫌った。1538年、二人は町から追放される。カルヴァンはストラスブールで亡命フランス人の教会の牧師を務め、改革者ブツァーのもとで教会の運営を学び、結婚もした。

ジュネーヴは混乱し、カトリックに戻るよう誘う手紙まで届いた。1541年、市は頭を下げてカルヴァンを呼び戻した。カルヴァンは戻る条件として、教会の規則を作らせた。同じ年の11月に採択された「教会規定」は、教会の務めを牧師、教師、長老、執事の四つに分けた。

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Wikimedia Commons Wittenberg: Melchior Lotter d.J., 1522 · Public domain

その中心に置かれたのが長老会(コンシストワール)になる。牧師と、市の参事会から選ばれた12人の長老が、毎週木曜日に集まった。呼び出されたのは、教会に来ない者、祈りの言葉を言えない者、昔のカトリックの習慣を続ける者、夫婦の喧嘩や家庭の暴力、賭博、踊り、酒場での騒ぎ、派手な服、悪口。諭され、叱られ、繰り返せば聖餐を拒まれる。罰金や投獄のような刑罰は、市の参事会に回された。

聖餐に与れないことは、町の共同体から外されることでもあった。長老会の記録は膨大に残っていて、16世紀の町の暮らしを細かく伝える史料になっている。全員が従ったわけではない。古くからの市民の家には、よそ者の牧師に生活を指図されることに反発する者が多く、ペラン派と呼ばれる一派は十数年にわたってカルヴァンと争った。カルヴァン自身は公職に就かず、1559年まで市民権すら持っていなかった。

生誕400年を記念して建てられた国際宗教改革記念碑左からギヨーム・ファレル(フランス語版)、カルヴァン、テオドール・ド=ベーズ(フランス語版)、ジョン・ノックス
生誕400年を記念して建てられた国際宗教改革記念碑左からギヨーム・ファレル(フランス語版)、カルヴァン、テオドール・ド=ベーズ(フランス語版)、ジョン・ノックスWikimedia Commons Ruth Nguyen at Vietnamese Wikipedia · Public domain

1553年、三位一体を否定する本を書いたスペイン生まれの医師セルヴェトゥスが、フランスの異端審問の牢を逃れて、ジュネーヴに現れた。正体を見破られて捕らえられ、裁判にかけられる。スイスのほかの改革派の町も厳罰を支持し、10月27日に火刑に処された。カルヴァンは、苦しみの少ない斬首にするよう求めたが、通らなかった。この処刑には当時から批判があり、バーゼルの学者カステリヨンは、異端者を殺すことの是非を問う本を出して反論した。

争いを決めたのは、移民の力だった。フランス、イングランド、スコットランド、ネーデルラント、イタリアから、信仰のために国を追われた人びとがジュネーヴに集まった。1550年代、町の人口は1万数千から2万あまりへ膨らんだとされる。亡命者が市民権を得て票を持つようになり、1555年、ペラン派は敗れて町を追われた。以後、カルヴァンの教会は揺るがなくなる。

若き日のジャン・カルヴァンの肖像
若き日のジャン・カルヴァンの肖像Wikimedia Commons Flemish school (Unknown Unknown ) · Public domain

ジュネーヴは、改革派の教会の学校になった。1559年には牧師を育てる学院が開かれ、各国から若者が学びに来た。ここで学び、母国に戻って教会を作った人びとから、フランスのユグノー、オランダの改革派、スコットランドの長老派、イングランドのピューリタンが育っていく。イングランドから逃れてきた人びとは、ここで英語の聖書を訳した。ジュネーヴ聖書と呼ばれ、シェイクスピアも読んだとされる。

スコットランドの改革者ジョン・ノックスは、亡命中にここで英語の会衆の牧師を務め、この町を「使徒の時代以来、地上にあった最も完全なキリストの学校」と手紙に書いた。帰国した彼は、スコットランドの宗教改革を率いる。フランスでは、ジュネーヴから送られた牧師たちが各地に教会を建て、やがて宗教戦争とサン・バルテルミの虐殺へつながっていく。マルティン・ルターが始めた改革は、ジュネーヴを経て、国境を越える組織になった。

サン・バルテルミの虐殺に関わる図版:La masacre de San Bartolomé, por François Dubois
サン・バルテルミの虐殺Wikimedia Commons François Dubois 1529-1584 · Public domain

教えの核の一つは、予定説だった。誰が救われるかは、神が初めから決めている。人の行いが救いを勝ち取るのではない。カルヴァンにとってこれは、救いを人の手から神の手に戻す、慰めの教えだった。

20世紀のはじめ、マックス・ウェーバーは、この教えが思いがけない結果を生んだと論じた(ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理』)。自分が救われているかを知りたい信者は、与えられた職業に禁欲的に励み、その成功を救いの確かさのしるしと受け取るようになった。稼いだ富は浪費されず、次の仕事に注ぎ込まれる。その生き方が資本主義の精神を育てた、という議論になる。ただしこれは、カルヴァン自身の教えというより、のちの世代の信者たちの生き方についての議論で、カルヴァンは仕事の成功を救いのしるしとは説いていない。ウェーバーの説には、いまも賛否がある。

カルヴァンをジュネーヴに留めたギヨーム・ファレルの肖像(16世紀)
カルヴァンをジュネーヴに留めたギヨーム・ファレルの肖像(16世紀)Wikimedia Commons After Titian · Public domain

カルヴァンは1564年に死んだ。本人の望みどおり、墓には目印が立てられなかった。

動画(1)

105 宗教改革のひろがり 世界史20話プロジェクト第11話Historia Mundi ムンディ先生高校の世界史を200講で通す講義の第105講「宗教改革のひろがり」

出典(1)

マックス・ウェーバー(大塚久雄 訳) 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』第2章(予定説と、その心理的な帰結)

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