カッパドキア教父
概要
バシレイオス、弟のニュッサのグレゴリオス、友人のナジアンゾスのグレゴリオス。三人がニカイアの「同一本質」をアリウス派から守り、三位一体の言葉を定めた。バシレイオスは病院と貧民の街を建て、東方の修道の規則を書いた。
場所
38.72°N 35.49°E · トルコ・カイセリ
関わった人(1)
バシレイオス(カイサリアの)AD330年頃–AD379年1月1日 · 司教本文
4世紀の初め、キリスト教はローマ帝国で公に認められたが、教会の中では、イエス・キリストとは何者かをめぐって激しい争いが起きていた。アレクサンドリアの司祭アリウスは、子なるキリストは父なる神に造られた者であり、神と同じではないと説いた。325年のニケーア公会議は、子は父と「同一本質(ホモウーシオス)」であると定めてアリウスを退けたが、争いは終わらなかった。その後の皇帝たちの多くはアリウス派に傾き、子は父に「似ている」とする折衷の考えが帝国の教会を覆った。ニカイアの信条を守る司教たちは、追放と復帰を繰り返した。
その争いに決着の道筋をつけたのが、小アジアの内陸カッパドキア出身の三人、カイサリアのバシレイオス(カイサリアの)、その弟ニュッサのグレゴリオス、バシレイオスの親友ナジアンゾスのグレゴリオスである。後世、彼らはまとめて「カッパドキア教父」と呼ばれる。

バシレイオスは330年ごろ、カッパドキアの中心の町カイサリアの裕福なキリスト教徒の家に生まれた。祖母マクリナは、ディオクレティアヌス帝の迫害の時代を森に隠れて生き延びた人で、母方の祖父は殉教者だったと伝えられる。十人の兄弟姉妹のうち、姉マクリナは家の領地で女性たちと修道の暮らしを始め、弟のグレゴリオスとペトロスはのちに司教になった。一つの家から、三人の司教と、聖人とされる修道女が出たことになる。
若いバシレイオスは、コンスタンティノープルとアテナイで学問を修めた。アテナイで同郷のナジアンゾスのグレゴリオスと出会い、生涯の友となった。グレゴリオスはのちに、二人が知っていた道は二つだけ、教会へ行く道と学校へ行く道だったと回想している。同じころアテナイには、のちに皇帝となってキリスト教を捨て、古い神々の信仰を復活させようとするユリアヌスも学んでいた(ユリアヌスの異教復興)。

故郷に戻ったバシレイオスは、弁論家として世に出る道を捨て、350年代の半ばに洗礼を受けた。エジプト、パレスチナ、シリア、メソポタミアの修道士たちを訪ねて歩いたのち、黒海に近い家の領地アンネシに引きこもり、ナジアンゾスのグレゴリオスとともに修道の生活を送った。そこでまとめたのが、修道士たちの問いに答える形の修道の規則である。バシレイオスは、砂漠で一人で祈る隠者の暮らしよりも、仲間と共に住み、働き、祈り、互いに仕える共同の暮らしを重んじた。一人で住むなら、誰の足を洗うのか、と彼は問うた。この規則は東方の修道の基礎となり、西方でも読まれて、のちにヌルシアのベネディクトゥスが自分の規則の中で勧める書物の一つになった。
368年ごろ、カッパドキアを飢饉が襲った。バシレイオスは説教で、穀物を倉にため込んで値上がりを待つ富者たちを責め、あなたの倉にあるパンは飢えた人のものだと説いた。自分の財産を売り、炊き出しの鍋の前に立って自ら食べ物を配ったという。370年、カイサリアの司教となったバシレイオスは、町の外に、病人や貧しい人、旅人や、人々に避けられたハンセン病の患者を受け入れて世話をする施設を建てた。人々はそれを彼の名にちなんで「バシレイアス」と呼んだ。医師と看護の人を置いて病人を組織的に世話する施設として、病院の源流の一つに数えられている。

アリウス派を支持する皇帝ウァレンスは、ニカイアの信仰を守るバシレイオスを屈服させようとした。ナジアンゾスのグレゴリオスが伝えるところでは、皇帝の長官モデストゥスは財産の没収と追放と死をちらつかせて脅したが、バシレイオスは、取られるほどの財産は無く、どこへ流されても神の地であり、死はむしろ神のもとへ早く行かせてくれるだけだと答えた。驚いた長官が、これほど大胆に私に口をきいた者はいないと言うと、バシレイオスは、それはあなたがまだ本当の司教に会ったことがないからでしょう、と答えたという。
バシレイオスと二人のグレゴリオスの神学の仕事は、言葉を定めることだった。父と子と聖霊は、本質(ウーシア)においては一つであり、それぞれの位格(ヒュポスタシス)としては三つである。それまでほぼ同じ意味で使われていた二つのギリシア語を使い分けることで、三位一体の神を語る枠組みが整えられた。バシレイオスは『聖霊について』で、聖霊も父と子とともに礼拝され、栄光を帰されるべきだと論じた。聖霊を正面から「神」と呼ぶ言い方は避け、争いを広げない言葉を選んだとされる。
バシレイオスは379年1月1日に死んだとされる(没年には異説もある)。50歳に届かなかった。その2年後の381年、新しい皇帝テオドシウスのもとでコンスタンティノープルで公会議が開かれ、ナジアンゾスのグレゴリオスも一時その議長を務めた。会議はニカイアの信仰を確かめ、聖霊を「主であり、命を与える者」とする信条をまとめた。カッパドキア教父の言葉を土台にしたこの信条は、いまも東西の多くの教会の礼拝で唱えられている。
二人のグレゴリオスもそれぞれに名を残した。ナジアンゾスのグレゴリオスは、詩と説教の名手で、東方教会では「神学者」の称号で呼ばれる。バシレイオスが政治の都合で辺鄙な町の司教に任じたことを恨み、一度もその町に赴かなかったと自ら書いている。ニュッサのグレゴリオスは、魂は神に向かって終わりなく進み続けるという思想を説いた神秘家で、三人のうちで最も哲学的な思索を残した。