アルメニアのキリスト教国教化
概要
王ティリダテスが13年獄に入れた男に癒され、洗礼を受けた。国としてキリスト教を採った最初。ローマの12年前。アルメニアはそれから、ペルシアともローマとも別の教会を持ち、自分の文字を作り、1700年その信仰で残った。
場所
40.16°N 44.29°E · アルメニア
関わった人(2)
ティリダテス3世AD250年頃–AD330年頃 · 王啓蒙者グレゴリオスAD257年頃–AD331年頃 · 洗礼を授けた本文
アルメニアは、黒海とカスピ海のあいだ、アララト山を望む高原の国である。西にローマ、東にペルシアという二つの大国にはさまれ、何百年ものあいだ、その綱引きの場になってきた。3世紀の終わり、ペルシアのササン朝の差し金で父を殺され、国を追われていた王子ティリダテス、つまりティリダテス3世は、ローマの後ろ盾を得てアルメニアの王位に戻った。
伝承によれば、この王に仕えた一人の男がいた。のちに啓蒙者グレゴリオスと呼ばれるグレゴリオスである。彼はローマ領のカッパドキアでキリスト教徒として育ったが、その父は、ティリダテスの父を暗殺した人物だったとされる。グレゴリオスがアルメニアの女神に供え物をすることを拒むと、王は彼を拷問にかけ、アララト山のふもとの深い穴に投げ込んだ。そこで十三年間、ひそかに食べ物を差し入れる者に助けられて生き延びた、と伝えられる。この穴のあった場所には、いまホル・ヴィラップ修道院が建っている。

伝承はさらに続く。ローマの迫害を逃れてアルメニアへ来た修道女たちを王が殺すと、王は正気を失い、獣のようになってしまった。王の妹が、穴の中のグレゴリオスなら王を癒せると夢で告げられ、彼は引き出される。グレゴリオスに癒された王は洗礼を受け、キリスト教を国の宗教とした。王と貴族たちが洗礼を受け、古い神々の神殿は壊されて、その跡に教会が建てられたという。グレゴリオスが幻の中で、天から神の独り子が降りてきて教会を建てる場所を示されたとされる地が、エチミアジンである。そこに建てられた大聖堂は、いまもアルメニア教会の中心になっている。
これらの話は、5世紀に書かれた歴史書などに伝わるもので、どこまでが史実かはわからない。年代も、伝統的には301年とされるが、研究者のあいだでは314年ごろとする説も有力である。それでも、アルメニアが国としてキリスト教を正式に採った最初の国だという点は、広く認められている。ローマでは、コンスタンティヌスのミラノ勅令が313年にキリスト教を認めたが、これは信仰を許したもので、国の宗教にしたのは380年のことである。

キリスト教を採ったことは、アルメニアにとって、宗教にとどまらない意味を持った。387年、ローマとペルシアはアルメニアを東西に分け合い(ローマとササン朝のアルメニア分割)、王国はやがて滅びる。国が失われたあと、人びとをアルメニア人としてつなぎとめたのは教会だった。5世紀の初め、修道士メスロプ・マシュトツはアルメニア語を書き表すための独自の文字を作り、聖書が訳された。この文字はいまも使われている。聖書に続いて、ギリシアやシリアの神学や哲学の書物が次々に訳され、アルメニア語の文学が生まれた。
451年、ペルシアのササン朝がアルメニアにゾロアスター教を押しつけようとすると、アルメニアの貴族たちは立ち上がり、アヴァライルの戦いで敗れはしたものの、やがて信仰の自由を認めさせた。同じ年、ローマの側ではカルケドン公会議が開かれ、キリストの本性をめぐる教義が定められた。アルメニア教会はこの会議に加わらず、のちにその決定を受け入れなかった。こうしてアルメニア教会は、ローマ(のちのカトリック)とも、コンスタンティノープルの正教会とも別の、独自の教会の道を歩むことになる。

その後もアルメニアの人びとは、アラブ、ビザンツ、セルジューク、モンゴル、オスマン、ペルシアと、次々に支配者が代わる中で、教会と文字を手放さなかった。20世紀にはアルメニア人虐殺で多くの命が奪われ、人びとは世界各地へ散る。1991年に独立を回復したアルメニア共和国は、2001年、国教化から千七百年を祝った。教会と文字が、国の無い時代を通して民族を守ってきたことの記念だった。