クローヴィスの改宗
概要
フランク王がカトリックを選んだ。ほかのゲルマン諸王が異端とされる宗派を採った中で、これが後々効いてくる。
場所
49.26°N 4.03°E · フランス
関わった人(1)
クローヴィス1世AD466年頃–AD511年 · 当人本文
5世紀の末、いまのフランス北部の町ランスで、フランク人の王クローヴィス1世がキリスト教の洗礼を受けた。それも、カトリックの洗礼だった。ゲルマン人の諸王の中で、この選択をしたのはクローヴィスが初めてで、それが後のヨーロッパの形を大きく左右した。
476年に西ローマの皇帝が退けられたあと(西ローマ帝国の滅亡)、帝国の西の半分には、ゲルマン人の王たちが国を立てていた。スペインと南フランスには西ゴート、イタリアには東ゴートのテオドリック大王、ローヌ川の流域にはブルグント、北アフリカにはヴァンダル。彼らの多くはすでにキリスト教徒だったが、信じていたのはアリウス派だった。キリストは父なる神と同じ本質ではなく、神に造られたものだとする教えで、4世紀のニケーア公会議で異端とされていた。一方、王たちが治める土地に住む大多数のローマ系の住民は、カトリックの信者だった。支配する者と支配される者とで、信仰が違っていた。

フランク人は、ライン川の下流から北フランスにかけて住み、まだ古くからの神々を祀っていた。クローヴィスは466年頃に生まれ、15歳ほどで父の跡を継いで、小さな部族の王になった。486年、北フランスに残っていたローマ人の勢力をソワソンの近くで破り、その土地を手に入れた。その後も周りのフランク人の諸王を倒し、ゲルマンの部族と戦って、領土を広げていった。
クローヴィスの改宗の話を伝えるのは、およそ80年後に書かれたトゥールの司教グレゴリウスの『歴史十書』である。それによると、クローヴィスの妻クロティルドは、ブルグント王家の出身で、熱心なカトリックの信者だった。彼女は夫に改宗を何度も勧めたが、クローヴィスは聞き入れなかった。二人の間に生まれた最初の息子は、洗礼を受けてまもなく死んだ。

転機は、東のアラマンニ人との戦いで訪れた。戦いが不利になったとき、クローヴィスは天を仰ぎ、クロティルドの神イエス・キリストよ、勝たせてくれるならあなたを信じよう、と祈った。するとアラマンニの王が倒れ、敵は逃げた。クローヴィスは約束を守り、ランスの司教レミギウスから洗礼を受けた。司教は、誇り高い者よ、頭を垂れよ、焼いてきたものを拝み、拝んできたものを焼け、と言ったという。3000人の兵が、王とともに洗礼を受けたとグレゴリウスは書いている。
この話は、2世紀前のローマ皇帝コンスタンティヌス1世が、戦いの前に十字架のしるしを見て勝ち、キリスト教を受け入れたという話によく似ている。グレゴリウスは、クローヴィスを第二のコンスタンティヌスとして描こうとしたと考えられている。洗礼の年も、伝統的には496年とされてきたが、その根拠はグレゴリウスの書き方に頼っており、同じ時代の手紙などから、498年や、508年頃とする説もある。決着はついていない。

クローヴィスがなぜカトリックを選んだのか、確かなことは分からない。妻の影響もあっただろう。だが、その選択が政治の上で大きな利点をもたらしたことは確かである。カトリックの住民から見れば、アリウス派の王は異端の支配者だった。カトリックの王クローヴィスは、そう見られなかった。当時、ローマ時代の町を実際に治め、読み書きと行政の実務を担っていたのは、各地のカトリックの司教たちだった。彼らは、クローヴィスを自分たちの側の王として支えた。
507年、クローヴィスは南の西ゴート王国に攻め込み、ヴイエの戦いで王アラリック2世を討ち取った。南フランスの大部分が、フランク王国のものになった。この戦いは、異端の王に対する戦いとして語られた。翌年、東ローマの皇帝は、クローヴィスに名誉の称号を贈っている。クローヴィスはパリを都と定め、511年には、オルレアンに司教たちを集めて教会の会議を開いた。その年、クローヴィスは死に、王国は4人の息子に分けられた。
クローヴィスの選択の重さは、時がたつにつれて明らかになった。アリウス派の王国は、ヴァンダルも東ゴートも6世紀のうちに滅び、西ゴートも589年にカトリックに改宗した(西ゴートのカトリック改宗)。フランク王国は、西ヨーロッパで最も強い国に育っていった。8世紀、フランクの宮宰の一族は、ローマの教皇と手を結び、ピピンの寄進を経て、800年のカール大帝の戴冠に至る。王の力と教会の権威が支え合う、中世の西ヨーロッパの仕組みの出発点に、ランスの洗礼がある。

後の時代には、伝説も加わった。9世紀、ランスの大司教ヒンクマールは、洗礼のとき、天から白い鳩が聖なる油の入った小瓶を運んできた、という話を書いた。その油を使ってランスで王を聖別することが、フランスの王の即位の儀式の中心になり、19世紀まで続いた。フランスは「教会の長女」と呼ばれるようになる。
1996年、洗礼から1500年を記念して、教皇ヨハネ・パウロ2世がランスを訪れた。政教分離を重んじるフランスでは、この記念を国の始まりとして祝うことに反対する声も上がった。クローヴィスの洗礼がフランスの始まりなのか、ある王の信仰の選択にすぎないのか。その問いは、いまのフランスでも議論の種になっている。