できごと

第七回十字軍(ダミエッタ)

Seventh Crusade
AD1249年6月6日
重要度 4
第七回十字軍(ダミエッタ)に関わる図版:Seventh crusade
Seventh crusade Wikimedia Commons Guillaume de Saint-Pathus, Vie et miracles de Saint Louis · Public domain

概要

ルイ9世がエジプトへ。ダミエッタを取り、カイロへ向かい、マンスーラで弟が死に、赤痢で軍が崩れ、王が捕虜になった。身代金40万リーヴル。4年、聖地の砦を直して帰った。1270年、チュニスでまた行って死んだ。聖人になった唯一のフランス王。

場所

ダミエッタ
31.42°N 31.81°E · エジプト

本文

1244年、エルサレムは再びキリスト教徒の手を離れた。エジプトのアイユーブ朝(アイユーブ朝)のスルタン、サーリフに呼ばれたホラズムの騎兵が町を荒らし、同じ年のガザの近くの戦いで、十字軍の国々の軍は壊滅した。その年の暮れ、フランス王ルイ9世は重い病に倒れ、回復したら十字軍に行くと誓った。30歳だった。母のブランシュ・ド・カスティーユも重臣たちも反対したが、ルイは誓いを曲げなかった。

準備に4年をかけた。フランス王の領地には地中海の港が無かったため、南フランスの湿地にエーグ・モルトの港を新たに築き、船をジェノヴァやマルセイユから借りた。1248年8月、ルイは妻と弟たちを連れて出航し、キプロス島で冬を越した。目標はエルサレムではなく、エジプトだった。聖地を支配するスルタンの富と力の源はナイルの国にあり、そこを押さえれば聖地は取り戻せるという考えである。

捕虜となったルイ9世(ギュスターヴ・ドレ画)
捕虜となったルイ9世(ギュスターヴ・ドレ画)Wikimedia Commons Gustave Doré · Public domain

1249年6月、艦隊はナイル川の河口の町ダミエッタの沖に着いた。年代記を書いた側近ジョワンヴィルによれば、王は待ちきれずに船から海に飛び込み、胸まで水につかって、盾を首にかけ、槍を手に岸へ向かった。守る側は戦いを避けて引き、6月6日、十字軍はほとんど抵抗を受けずにダミエッタに入った。スルタンのサーリフは重い病にかかっていた。

だが勢いはそこで止まった。夏にはナイルが増水し、軍は動けない。ルイは弟アルフォンスの援軍を待ちながら、5か月をダミエッタで過ごした。11月、十字軍はようやくカイロを目指して南へ進み始めた。その直後、サーリフが死んだ。妃のシャジャル・アッ=ドゥッルは死を伏せ、スルタンの名で命令を出し続けて、遠くにいた息子トゥーラーン・シャーの帰りを待った。

ラ・フォルビーの戦い(マシュー・パリス『大年代記』より)
ラ・フォルビーの戦い(マシュー・パリス『大年代記』より)Wikimedia Commons Matthew Paris · Public domain

十字軍の前には、ナイルの分流と運河が立ちはだかった。対岸の町マンスーラに陣取るエジプト軍に阻まれて、何週間も渡れなかった。1250年2月8日、浅瀬を見つけた騎士たちが渡河に成功する。先頭にいた王の弟ロベール・ダルトワは、本隊を待てという命令に従わず、テンプル騎士団を引き連れてマンスーラの町の中まで突っ込んだ。細い路地で待ち構えていたのが、スルタンの奴隷出身の精鋭マムルークで、その指揮官の一人に若きバイバルスがいた。ロベールも騎士たちも、ほぼ全員が討ち取られた。

ルイ自身は川岸の戦いを持ちこたえ、陣地は守ったが、マンスーラの町は落ちなかった。軍は泥の中に釘付けになり、エジプト側の船が補給の道を断った。陣中には赤痢と壊血病が広がった。ジョワンヴィルは、兵士たちの歯茎が腐って膨れ、床屋がそれを切り取らねば食べ物が噛めなかったと書いている。4月、ルイはダミエッタへの退却を命じた。王も赤痢にかかっていて、退却の途中で動けなくなり、4月6日、軍もろとも降伏した。数千人の兵が捕虜になり、歩けない病人は殺された。

モンゴルの将バイジュと面会するロンバルディアのアスケリヌス
モンゴルの将バイジュと面会するロンバルディアのアスケリヌスWikimedia Commons David Aubert · Public domain

その直後、エジプトの宮廷で政変が起きた。戻ってきたトゥーラーン・シャーが父の家臣のマムルークを冷遇したため、5月の初めに、マムルークたちは彼を殺した。シャジャル・アッ=ドゥッルがスルタンに立てられ(シャジャル・アッ=ドゥッルの即位)、ここからマムルーク朝の時代が始まる。十字軍の敗北は、図らずもエジプトの王朝の交代の舞台になった。

ルイの解放の条件は、ダミエッタを明け渡し、身代金40万リーヴルを払うことだった。フランス王の一年の収入を大きく超える額である。ジョワンヴィルによれば、ルイは値切ろうとせず、王たる者が金で値をつけられるべきではないとして、自分の身はダミエッタと引き換え、兵の身代金を金で払うと答えたという。5月6日、半額を払ってルイは解放された。

ジャン・ド・ジョワンヴィルが著書『聖王ルイ伝』をルイ10世に献呈する場面(1330年代の細密画)
ジャン・ド・ジョワンヴィルが著書『聖王ルイ伝』をルイ10世に献呈する場面(1330年代の細密画)Wikimedia Commons Mahiet · Public domain

ルイはそのままフランスへ帰らず、十字軍の国々の残るシリアの海岸に4年とどまった。アッコンを拠点に、カイサリア、ヤッファ、シドンの城壁を修理し、捕虜の買い戻しを進めた。1252年に摂政を務めていた母ブランシュが死に、1254年、ルイはようやく帰国した。

帰国後のルイは、裁判と行政を整え、質素で敬虔な王として振る舞った。パリには、1239年に東方のラテン皇帝ボードゥアン2世から買い取ったキリストの茨の冠を納めるため、壁のほとんどがステンドグラスでできたサント・シャペルを建てていた。茨の冠には13万5000リーヴルを払い、礼拝堂そのものの建設費は4万リーヴルほどだったとされる。

ルイ9世のエーグ・モルト出航を描いた版画(ギュスターヴ・ドレ画)
ルイ9世のエーグ・モルト出航を描いた版画(ギュスターヴ・ドレ画)Wikimedia Commons Gustave Doré · Public domain

1270年、ルイは再び十字軍を起こした。行き先は北アフリカのチュニスで、その地の君主がキリスト教に改宗するかもしれないという期待があったとされる。だが夏の陣中に疫病が広がり、8月25日、ルイは死んだ。56歳だった。最期に「エルサレム」とつぶやいたと伝えられる。1297年、教皇ボニファティウス8世はルイを聖人とした。フランスの王で聖人とされたのは彼だけである。十字軍は二度とも失敗に終わったが、その信仰の篤さが聖人とされる理由になった。アッコンの陥落(アッコンの陥落)で十字軍の国々が消えるのは、それから21年後である。

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スノッリ『ヘイムスクリングラ』AD1230年頃御成敗式目AD1232年(貞永元年)モンゴルの站赤AD1234年マリ帝国の成立AD1235年ラズィーヤの即位AD1236年高麗版大蔵経1236年バトゥの西征AD1237年水の法廷AD1238年ごろ
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