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Person / 人

アレクシオス1世コムネノス

Alexios I Komnenos
AD1057年 – AD1118年8月15日(享年61・推定)
ビザンツ帝国重要度 5

概要

マンジケルトから10年、帝国は崩れかけていた。1081年、24歳で帝位を取った。ノルマンにデュラキオンで負け、ペチェネグに負け、レヴニオンで勝ち、十字軍を通し、ニカイアを取り戻した。37年。娘アンナが『アレクシアス』を書いた。コムネノス朝100年の始まり。

関わったできごと(2)

マンジケルトの戦いAD1071年8月26日 · 10年後に帝位をレヴニオンの戦いAD1091年4月29日 · 皇帝

本文

コムネノス家。パフラゴニアの軍事貴族。叔父のイサキオス1世が1057年に2年皇帝だった。アレクシオスは1057年生まれ、父ヨハネス、母アンナ・ダラッセナ。母が家を動かした。

1071年、マンジケルト。ロマノス4世が捕虜になった。10年、皇帝が3人代わり、テュルク人がアナトリアを取り、ノルマンがイタリアを取り、ペチェネグがトラキアにいた。1081年4月1日、アレクシオスと兄イサキオスが軍で都に入り、ニケフォロス3世を退位させた。24歳。妻はドゥカス家のエイレーネー。ドゥカス家との同盟。

ロベール・ギスカールのノルマンがデュラキオンに来た。1081年10月、負けた。ヴェネツィアに海の助けを頼み、代わりに関税免除を与えた(1082年の金印勅書。ヴェネツィアの帝国が、ここから)。ギスカールが1085年に病死して、ノルマンは帰った。ペチェネグ。1087年、ドリストロンで負けた。1091年、レヴニオン。クマンを雇って、勝った。教会の財産を没収して兵を養い、貨幣を改鋳した(ヒュペルピュロン)。プロノイア。

1095年、教皇に傭兵を頼んだ。1096年、十字軍が来た。隠者ピエールの民衆十字軍を急いで海峡の向こうへ送って、テュルクに全滅させられた。諸侯の十字軍には忠誠を誓わせ、ニカイアを取り戻し、アンティオキアでボエモンと決裂した。1108年、デヴォル条約でボエモンを臣下にした。

37年。「私が皇帝になったとき、帝国はボスポラスとアドリアノープルの間だけだった」。死んだとき、アナトリアの西半分とバルカンが戻っていた。1118年8月15日。娘アンナ・コムネナが『アレクシアス』15巻を書いた。ビザンツで最も詳しく書かれた皇帝。息子ヨハネス2世が継いだ。コムネノス朝100年。