アレクシオス1世コムネノス
概要
マンジケルトから10年、帝国は崩れかけていた。1081年、24歳で帝位を取った。ノルマンにデュラキオンで負け、ペチェネグに負け、レヴニオンで勝ち、十字軍を通し、ニカイアを取り戻した。37年。娘アンナが『アレクシアス』を書いた。コムネノス朝100年の始まり。
関わったできごと(2)
マンジケルトの戦いAD1071年8月26日 · 10年後に帝位をレヴニオンの戦いAD1091年4月29日 · 皇帝本文
アレクシオス・コムネノスは1057年ごろ、小アジア北部パフラゴニアに根を持つ軍事貴族のコムネノス家に生まれた。叔父のイサキオス1世はちょうどその頃に帝位につき、2年ほどで退いている。父ヨハネスは早くに亡くなり、一家を動かしたのは母アンナ・ダラッセナだった。気性が強く聡明な彼女は、息子たちに帝位を取り戻させることを生涯の目標にしていたとされる。
アレクシオスが少年だった1071年、皇帝ロマノス4世がマンジケルトの戦いでセルジューク朝に敗れて捕虜となった。それからの10年、帝国は崩れていった。帝位をめぐって将軍たちが反乱を繰り返し、そのたびにテュルク系の騎馬集団が傭兵として招き入れられ、小アジアの奥深くまで入り込んだ。西ではロベール・ギスカールのノルマン人が南イタリアの最後の帝国領を奪い、北ではペチェネグ人がドナウを越えてバルカンを荒らした。アレクシオスは若くして将軍となり、相次ぐ反乱を鎮圧して名を上げていった。

1081年、アレクシオスは兄イサキオスとともに軍を率いてコンスタンティノープルに入り、老皇帝ニケフォロス3世を退位させた。4月、24歳ほどで即位する。妻エイレーネーは名門ドゥカス家の娘で、この結婚が二つの有力な家を結びつけた。即位後、アレクシオスは遠征に出る間の国政を母に任せる勅書を出している。
即位したその年、ロベール・ギスカールのノルマン軍がアドリア海を渡り、バルカン西岸のデュラキオン(今のアルバニアのドゥラス)を囲んだ。10月、アレクシオスは救援に向かって大敗し、自身も傷を負いながら逃れた。海の上で戦う力を失っていた帝国は、ヴェネツィアに艦隊の助けを求め、その見返りに帝国内での関税の免除と、首都での商館を与えた(ヴェネツィア共和国)。この特権は、のちにヴェネツィアが東地中海の商業を握る足がかりとなり、帝国の財政を長く苦しめることになる。ノルマンの脅威は、1085年にギスカールが病死してようやく去った。

次はペチェネグだった。1087年、アレクシオスはドナウ下流のドリストラで大敗し、ペチェネグはやがて首都のすぐ近くまで迫った。アレクシオスは別の遊牧民クマン人と手を組み、1091年4月、トラキアのレヴニオンでペチェネグを壊滅させた。戦費を工面するため、教会の財産まで取り上げ、価値の下がっていた金貨を改めて新しい金貨ヒュペルピュロンを作った。功績のあった貴族には土地からの収入を与える仕組みを広げ、帝国の要職を一族と姻戚で固めた。
アレクシオスは正統の信仰の守り手を自任した。帝国内に広がっていたボゴミール派という異端の指導者バシレイオスを、教えを聞きたいふりをして宮殿に招いて話させ、隠れていた書記に記録させたうえで捕らえ、のちに火刑に処した、とアンナ・コムネナは書いている。一方で、首都には孤児や老人、障害を持つ人々を数千人収容する大きな施設を建てた。アンナはそれを、都の中にもう一つの都があるようだと書いている。
1095年、アレクシオスは西方に使節を送り、テュルク人と戦うための兵の助けを求めた。教皇ウルバヌス2世はこれを受けて十字軍の呼びかけを行ったが、やってきたのは皇帝が期待した傭兵の部隊ではなく、何万という騎士と民衆の大軍だった。1096年夏、隠者ピエールに率いられた民衆の群れが先に着くと、アレクシオスは彼らを急いで海峡の向こうへ渡したが、民衆はまもなくテュルク軍に討たれた。後から来た諸侯の軍には、取り戻した旧帝国領を返すという誓いを立てさせ、補給と案内を与えた。1097年、十字軍とともにニカイアを取り戻した。

だが、協力は長く続かなかった。アンティオキアの攻防のさなか、アレクシオスは援軍を引き返させた。ギスカールの子ボエモンはこれを裏切りとし、アンティオキアを自分のものにした。十字軍はそのまま第1回十字軍のエルサレム占領へ進んだ。ボエモンはのちにバルカンへ攻め込んだが敗れ、1108年のデヴォル条約で皇帝の臣下となることを認めた。ただ、アンティオキアが帝国に戻ることはなかった。十字軍と帝国の間に生まれた不信は、百年後の第四回十字軍で、十字軍がコンスタンティノープルそのものを攻め落とす結末へとつながっていく。
アレクシオスの治世は37年に及んだ。即位したとき崩れかけていた帝国は、彼が死ぬころには、小アジアの西部の沿岸とバルカンの大半を取り戻していた。1118年8月15日、アレクシオスは死んだ。死の床で、妻エイレーネーは娘アンナの夫を後継に推したが、帝位を継いだのは息子のヨハネス2世だった。

アレクシオスの姿が今日これほど詳しく分かるのは、長女アンナ・コムネナが晩年に父の伝記『アレクシアス』15巻を書いたからである。帝位を弟に奪われて修道院に退いたアンナは、父を理想の皇帝として描き、十字軍の騎士たちを粗野な異邦人として書いた。偏りはあるが、十字軍をビザンツの側から見た第一級の史料である。アレクシオスに始まるコムネノス朝は、ほぼ百年にわたって帝国を支えた。