概要
イタリアの統一が進み、教皇の領土が削られていくなかで、教皇ピウス9世は、近代の自由主義や合理主義を誤りとして退け、1869年、ローマに世界の司教を集めて公会議を開いた。1870年7月18日、公会議は、教皇が信仰と道徳について教皇の座から正式に宣言するとき、その教えは誤りえないと定めた。反対の司教の多くは採決の前にローマを去っていた。翌日、普仏戦争が始まり、教皇を守っていたフランス軍が引き揚げると、9月にイタリア軍がローマに入った。公会議は中断されたまま終わり、教皇はバチカンに閉じこもった。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
本文
19世紀のローマ教皇は、イタリアの真ん中に、ローマを含む教皇領を持つ君主でもあった。だがイタリアを一つの国にまとめようとする運動が進み(イタリア統一)、教皇領は次々に削られていった。1860年代には、教皇に残されたのはローマとそのまわりだけで、それもフランス軍が守っていたからこそだった。
教皇ピウス9世は、若いころには改革に理解を示していたが、1848年の革命でローマを追われてからは、近代の思想に厳しく背を向けた。1864年には「誤謬表」を出し、自由主義、合理主義、信教の自由、教会と国家の分離など、80の「誤り」を並べて退けた。1869年12月、教皇は、トレント公会議から300年ぶりの公会議をバチカンに招集した。
最大の争点は、教皇の不可謬だった。ドイツやフランス、オーストリアの司教の一部は、教皇の権威を強めすぎることが、各国の教会と政府との関係を損なうと恐れて反対した。だが多数派は押し切った。1870年7月18日、採決の前に反対派の多くはローマを去り、残った533人が賛成し、反対は2人だった。教皇が、全教会の牧者として、信仰と道徳について教皇の座から正式に定めるとき、その教えは誤りえないとされた。
翌日、フランスがプロイセンに宣戦し、普仏戦争が始まった。ローマを守っていたフランス軍は本国へ引き揚げた。9月20日、イタリア軍はローマの城壁を破って町に入り、ローマはイタリア王国の首都になった。公会議は10月に中断され、二度と再開されなかった。
ピウス9世はイタリア王国を認めず、自らを「バチカンの囚人」と呼んでバチカンの宮殿から出なかった。教皇不可謬の教義を認めない人々はカトリック教会から分かれて復古カトリック教会を作り、ドイツではビスマルクがカトリック教会を抑え込む「文化闘争」を始めた。教皇とイタリアの国との対立は、1929年のラテラノ条約まで続いた。教会が現代の世界に向き合い直すのは、およそ一世紀後の第二バチカン公会議である。