概要
ペチェネグがトラキアを荒らし、コンスタンティノープルに迫った。アレクシオス1世は敵の草原の民クマンを雇い、一日で潰した。「一つの民が、一日で消えた」。20年、負け続けたビザンツの最初の勝ち。4年後、アレクシオスは教皇に兵を頼み、十字軍が来た。
場所
40.95°N 26.30°E · トルコ・トラキア
関わった人(1)
アレクシオス1世コムネノスAD1057年–AD1118年8月15日 · 皇帝本文
ペチェネグはテュルク系の遊牧民で、10世紀からドナウの北にいて、11世紀の半ばにドナウの南に入って住み着いた。ビザンツは追い出せなかった。1087年、アレクシオス1世がドリストロンで攻めて、負けた。1090年、ペチェネグは冬をトラキアで過ごし、コンスタンティノープルの城壁が見える所まで来た。海からは、スミュルナのテュルク人海賊チャカが艦隊で来て、ペチェネグと組んで都を挟もうとした。
アレクシオスは、ペチェネグの敵の遊牧民、クマン(ポロヴェツ)を呼んだ。クマンの首長トゴルタクとボニャクが4万で来た。ビザンツは2万。
1091年4月29日、マリツァ川(エヴロス川)の河口の近く、レヴニオンの丘。ペチェネグは荷車の陣を組んで家族と一緒にいた。ビザンツとクマンが夜明けに攻めた。ペチェネグは崩れて、戦えない者も逃げられなかった。「一つの民が、数えきれない民が、一日で消えた」。アンナ・コムネナ『アレクシアス』。捕虜も、その夜のうちにビザンツ兵が殺した。アレクシオスが止めたが、止まらなかった、とアンナは書く。クマンは戦利品を持って帰った。
マンジケルト(1071年)から20年、ビザンツは負け続けていた。ノルマンにデュラキオンで、ペチェネグにドリストロンで。レヴニオンで、初めて大きく勝った。
その4年後の1095年、アレクシオスはピアチェンツァの教会会議に使者を送って、教皇ウルバヌス2世に傭兵を頼んだ。ウルバヌスはクレルモンで十字軍を呼びかけた。アレクシオスが頼んだのは傭兵で、来たのは十字軍だった。