できごと

レヴニオンの戦い

Battle of Levounion
AD1091年4月29日
重要度 4
レヴニオンの戦いに関わる図版:Alexius I
Alexius I Wikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

概要

ペチェネグがトラキアを荒らし、コンスタンティノープルに迫った。アレクシオス1世は敵の草原の民クマンを雇い、一日で潰した。「一つの民が、一日で消えた」。20年、負け続けたビザンツの最初の勝ち。4年後、アレクシオスは教皇に兵を頼み、十字軍が来た。

場所

レヴニオン
40.95°N 26.30°E · トルコ・トラキア

関わった人(1)

アレクシオス1世コムネノスAD1057年–AD1118年8月15日 · 皇帝

本文

1071年、ビザンツ帝国は東のマンジケルトの戦いでセルジューク朝に大敗し、皇帝が捕虜になった。その後の20年、帝国は四方から攻められ続けた。小アジアの大半はテュルク系の人々の手に渡り、西からは南イタリアのノルマン人がアドリア海を渡って攻めてきた。そして北では、ドナウ川の向こうから来た遊牧民ペチェネグが、バルカン半島を荒らしていた。

ペチェネグはテュルク系の遊牧の民で、10世紀から黒海の北の草原に住み、ビザンツにとっては時に味方、時に敵だった。11世紀の半ば、東から来た別の遊牧民に押されて、彼らはドナウ川を越えて帝国の領内に入り、住み着いた。帝国は彼らを追い出せず、ペチェネグは略奪を繰り返した。

1081年に即位したアレクシオス1世コムネノスは、即位するとすぐにノルマン人のロベール・ギスカールにデュラキオン(いまのアルバニアのドゥラス)で敗れた。1087年にはドナウ川のほとりのドリストラでペチェネグを攻め、またしても大敗して、かろうじて逃げ帰った。1090年、ペチェネグはトラキアで冬を越し、帝都コンスタンティノープルの城壁から遠くないところまで迫った。そのうえ小アジアの西の港スミュルナでは、テュルクの首長チャカが艦隊を作り、ペチェネグと組んで海と陸から帝都を挟み撃ちにしようとしていた。帝国は滅亡の淵に立っていた。

アレクシオスは、敵の敵を使うことにした。ペチェネグの北の草原には、同じテュルク系の遊牧民クマンがいた。ロシアの年代記ではポロヴェツと呼ばれる人々で、ペチェネグとは草原を争う宿敵だった。皇帝の誘いに応じて、クマンの首長たちが大軍を率いて南へ下ってきた。皇帝の娘アンナ・コムネナは、その数を4万と書いている。

1091年4月29日の朝、マリツァ川の河口に近いレヴニオンの丘のふもとで、ビザンツとクマンの軍はペチェネグに襲いかかった。ペチェネグは荷車を並べた陣の中に、妻や子どもたちと一緒にいた。戦いは一方的だった。逃げ場を失ったペチェネグは、戦士も女も子どもも、その日のうちに大半が討たれるか捕らえられた。

アンナ・コムネナは、のちに父の伝記『アレクシアス』の中で、数えきれないほどの一つの民が、一日で消え去った、と書いた。捕虜はあまりに多く、ビザンツの兵一人が何人もの捕虜を見張るほどだった。その夜、兵たちは捕虜の大半を殺した。アンナによれば、父の皇帝は翌朝これを知って怒ったが、誰がやったのかは分からなかったという。皇帝の娘の筆には父をよく見せる傾きがあり、この場面も割り引いて読む必要がある。

クマンは戦利品を手に北へ帰った。生き残ったペチェネグの一部は帝国の土地に住まわされ、帝国の兵として使われた。ペチェネグはその後も一度だけ大きな攻撃をかけたが、1122年に皇帝ヨハネス2世に破られ、歴史から姿を消していく。

レヴニオンは、マンジケルトから20年、負け続けてきたビザンツが手にした初めての大きな勝利だった。北の脅威が消えたことで、アレクシオスは東の小アジアへ目を向けられるようになった。テュルクから土地を取り戻すには兵が足りない。そこで1095年、アレクシオスはイタリアのピアチェンツァで開かれた教会会議に使者を送り、ローマ教皇ウルバヌス2世に、西方の騎士を兵として送ってほしいと頼んだ。

ウルバヌスはその年の秋、フランスのクレルモンで、東方のキリスト教徒を救え、と人々に呼びかけた(十字軍の呼びかけ)。アレクシオスが望んだのは、自分の指揮に従う傭兵だった。だがやって来たのは、自分たちの神の名において戦い、自分たちのために土地を取る、何万もの十字軍の騎士と民衆だった。レヴニオンの勝利から始まった帝国の立て直しは、思いもかけない客を東方へ招き入れることになった。

同じ時代のできごと

マンジケルトの戦いAD1071年8月26日ノルマンのパレルモ征服AD1072年1月10日ムラービト朝のガーナ攻撃AD1076年カノッサの屈辱AD1077年ジャラーリー暦AD1079年烏台詩案AD1079年後三年の役AD1083年(永保3年)トレドの陥落AD1085年
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