砂漠の修道制の始まり
概要
エジプトの若者が財産を配り、砂漠へ入った。アントニオスの伝記が広まり、修道院という制度がここから生まれる。
場所
31.20°N 29.92°E · エジプト
本文
3世紀の半ば、エジプト中部の村コマに、アントニオスという少年が生まれた。キリスト教徒の裕福な農家で、両親はかなりの土地を持っていた。20歳ほどのころ両親が亡くなり、彼は幼い妹と財産を受け継いだ。
ある日、教会で福音書が読まれた。もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り、貧しい人びとに施しなさい。そうすれば天に宝を積むことになる。アントニオスは、それが自分に向けられた言葉だと感じた。土地を村人に分け、残りの財産を売って施し、妹は信仰に生きる女性たちの家に預けた。

はじめは村の近くで、年長の修行者に倣って祈りと労働の暮らしを始めた。やがて村から離れた墓地の墓室にこもった。伝記によれば、そこで悪魔の群れに襲われ、打ちのめされて倒れているのを、食べ物を届けに来た知人に見つけられたという。のちにナイル川の東岸の砂漠に入り、打ち捨てられた砦の中で20年近く、ほとんど人と会わずに過ごした。
ローマ帝国はそのころ、内乱と外敵の侵入、物価の高騰に揺れていた(三世紀の危機)。重い税から逃れて村を捨てる者も多かった。砂漠に逃れたのはアントニオスだけではない。だが彼の名は、とりわけ広く知られるようになった。

305年ごろ、彼の話を聞いた人びとが砦の扉を壊して中に入った。出てきたアントニオスは、長い孤独の後とは思えないほど穏やかで、体も衰えていなかったと伝記は言う。人びとは彼のまわりに住みつき、教えを請うた。砂漠に小屋が並び、祈りと手仕事で暮らす修行者たちの集まりができた。伝記の作者は、こうして砂漠が修道士たちの町になった、と書いている。
311年、皇帝によるキリスト教徒の迫害が起きると、アントニオスはアレクサンドリアに出て、捕らえられた信徒を励ました。殉教を望んだが、捕らえられなかった。迫害が終わると、さらに奥の、紅海に近い山の中に移った。そこにはいまも彼の名を冠した修道院が建っている。晩年には再びアレクサンドリアに出て、キリストの神性をめぐる論争で、正統の側を支持した(ニケーア公会議)。

アントニオスは356年に、100歳を超えて死んだとされる。墓を人びとが崇めることを嫌い、場所を秘密にするよう弟子に言い残した。
同じころ、南のエジプトでは、パコミオスという元兵士が、別の形の修道生活を始めていた。一人で砂漠にこもるのではなく、塀で囲んだ中で大勢が共に暮らす。起きる時刻、祈る時刻、働く時刻を決め、食事も衣服も同じにし、院長に従う。パコミオスの作った規則は、共住の修道院の最初のものとされる。アントニオスが隠修士の手本なら、パコミオスは修道院の創始者だった。
アントニオスの名を地中海全体に広めたのは、アレクサンドリアの司教アタナシオスが、彼の死後まもなく書いた伝記である。アタナシオスは若いころアントニオスに会っており、悪魔との戦い、断食、奇跡、そして穏やかな人柄を描いた。この本はすぐにラテン語に訳され、西方でも読まれた。
アウグスティヌスの『告白』には、この本が人を動かす場面がある。386年、ミラノにいたアウグスティヌスのもとを訪ねた同郷の男が、アントニオスの話をした。ある宮廷の役人二人が、たまたまこの伝記を読み、その場で職を捨てて修道生活に入った、と。話を聞いたアウグスティヌスは激しく動揺し、庭に出て泣き、まもなく回心する(アウグスティヌスの回心)。
砂漠の修道士たちの言葉は集められて語り継がれ、修道の生き方は小アジアへ、ガリアへ、アイルランドへと伝わった(コルンバのアイオナ修道院)。6世紀にイタリアのヌルシアのベネディクトゥスが書いた戒律は、祈りと労働を柱にして、西方の修道院の基本になった(ベネディクトの戒律)。修道院はその後1000年にわたって、写本を作り、学問を守り、森を開いて畑を広げた。

アントニオスの悪魔との戦いは、画家たちの好んだ主題にもなった。中世の終わりから近世にかけて、ボスやグリューネヴァルトらが、奇怪な怪物たちに襲われる老人の姿を描いている。「聖アントニウスの誘惑」として知られる絵である。