できごと

砂漠の修道制の始まり

Desert Fathers
AD270年頃
重要度 3
古シベリアの狩猟採集民コイサンローマフィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民西アフリカの穀作農民ササン朝ペルシアサカ族の王国スーレーン家の王国メロエヒムヤル王国アクスム王国アルメニアハドラマウトブレンミュエスYuebanBoihaenumAD270年頃アレクサンドリア
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD270年頃の版図を描いています(16勢力)。

概要

エジプトの若者が財産を配り、砂漠へ入った。アントニオスの伝記が広まり、修道院という制度がここから生まれる。

場所

アレクサンドリア
31.20°N 29.92°E · エジプト

本文

3世紀の半ば、エジプト中部の村コマに、アントニオスという少年が生まれた。キリスト教徒の裕福な農家で、両親はかなりの土地を持っていた。20歳ほどのころ両親が亡くなり、彼は幼い妹と財産を受け継いだ。

ある日、教会で福音書が読まれた。もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り、貧しい人びとに施しなさい。そうすれば天に宝を積むことになる。アントニオスは、それが自分に向けられた言葉だと感じた。土地を村人に分け、残りの財産を売って施し、妹は信仰に生きる女性たちの家に預けた。

聖オヌフリオス。4世紀のデザート・ファーザー、エマヌエル・ツァネス画
聖オヌフリオス。4世紀のデザート・ファーザー、エマヌエル・ツァネス画Wikimedia Commons Emmanuel Tzanes · Public domain

はじめは村の近くで、年長の修行者に倣って祈りと労働の暮らしを始めた。やがて村から離れた墓地の墓室にこもった。伝記によれば、そこで悪魔の群れに襲われ、打ちのめされて倒れているのを、食べ物を届けに来た知人に見つけられたという。のちにナイル川の東岸の砂漠に入り、打ち捨てられた砦の中で20年近く、ほとんど人と会わずに過ごした。

ローマ帝国はそのころ、内乱と外敵の侵入、物価の高騰に揺れていた(三世紀の危機)。重い税から逃れて村を捨てる者も多かった。砂漠に逃れたのはアントニオスだけではない。だが彼の名は、とりわけ広く知られるようになった。

Unknown painter - Transfiguration of Christ - WGA23487
Wikimedia Commons Unidentified painter · Public domain

305年ごろ、彼の話を聞いた人びとが砦の扉を壊して中に入った。出てきたアントニオスは、長い孤独の後とは思えないほど穏やかで、体も衰えていなかったと伝記は言う。人びとは彼のまわりに住みつき、教えを請うた。砂漠に小屋が並び、祈りと手仕事で暮らす修行者たちの集まりができた。伝記の作者は、こうして砂漠が修道士たちの町になった、と書いている。

311年、皇帝によるキリスト教徒の迫害が起きると、アントニオスはアレクサンドリアに出て、捕らえられた信徒を励ました。殉教を望んだが、捕らえられなかった。迫害が終わると、さらに奥の、紅海に近い山の中に移った。そこにはいまも彼の名を冠した修道院が建っている。晩年には再びアレクサンドリアに出て、キリストの神性をめぐる論争で、正統の側を支持した(ニケーア公会議)。

ニケーア公会議に関わる図版:Μιχαήλ Δαμασκηνός - Α΄ Οικουμενική Σύνοδος 7741
ニケーア公会議Wikimedia Commons C messier · Public domain

アントニオスは356年に、100歳を超えて死んだとされる。墓を人びとが崇めることを嫌い、場所を秘密にするよう弟子に言い残した。

同じころ、南のエジプトでは、パコミオスという元兵士が、別の形の修道生活を始めていた。一人で砂漠にこもるのではなく、塀で囲んだ中で大勢が共に暮らす。起きる時刻、祈る時刻、働く時刻を決め、食事も衣服も同じにし、院長に従う。パコミオスの作った規則は、共住の修道院の最初のものとされる。アントニオスが隠修士の手本なら、パコミオスは修道院の創始者だった。

アントニオスの名を地中海全体に広めたのは、アレクサンドリアの司教アタナシオスが、彼の死後まもなく書いた伝記である。アタナシオスは若いころアントニオスに会っており、悪魔との戦い、断食、奇跡、そして穏やかな人柄を描いた。この本はすぐにラテン語に訳され、西方でも読まれた。

アウグスティヌスの『告白』には、この本が人を動かす場面がある。386年、ミラノにいたアウグスティヌスのもとを訪ねた同郷の男が、アントニオスの話をした。ある宮廷の役人二人が、たまたまこの伝記を読み、その場で職を捨てて修道生活に入った、と。話を聞いたアウグスティヌスは激しく動揺し、庭に出て泣き、まもなく回心する(アウグスティヌスの回心)。

砂漠の修道士たちの言葉は集められて語り継がれ、修道の生き方は小アジアへ、ガリアへ、アイルランドへと伝わった(コルンバのアイオナ修道院)。6世紀にイタリアのヌルシアのベネディクトゥスが書いた戒律は、祈りと労働を柱にして、西方の修道院の基本になった(ベネディクトの戒律)。修道院はその後1000年にわたって、写本を作り、学問を守り、森を開いて畑を広げた。

ベネディクトの戒律に関わる図版:MS. Hatton 48 fol. 6v-7r
ベネディクトの戒律Wikimedia Commons Public domain

アントニオスの悪魔との戦いは、画家たちの好んだ主題にもなった。中世の終わりから近世にかけて、ボスやグリューネヴァルトらが、奇怪な怪物たちに襲われる老人の姿を描いている。「聖アントニウスの誘惑」として知られる絵である。

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