ヒルデガルトの『スキヴィアス』
概要
修道女が幻視を書き記し、教皇に認められた。女性が公に神学を語れた、この時代では稀な例。
場所
49.97°N 7.90°E · ドイツ・ラインラント=プファルツ州
関わった人(1)
ヒルデガルト・フォン・ビンゲンAD1098年–AD1179年9月17日 · 著者本文
ヒルデガルト・フォン・ビンゲンは1098年、ライン川の支流に近いベルマースハイムの貴族の家に、10番目の子として生まれた。8歳のころ、神への捧げものとして、ディジボーデンベルクの修道院に住む修道女ユッタに預けられる。男子修道院の一角に設けられた小さな庵で、外の世界から閉ざされて祈りと学びの日々を送った。
幼いころから、彼女には他の人に見えない光が見えていた。のちに彼女はそれを「生ける光の影」と呼んでいる。眠っているときでも、我を忘れたときでもなく、目を開けたまま、はっきりとした意識の中で見たという。だが長いあいだ、そのことを口にはしなかった。

幻を見ることは、この時代の女性にとって危うかった。神から来たものと認められれば聖なる人とされるが、悪魔のしわざと見なされれば、異端として裁かれかねない。女性が人前で神学を語ること自体、ほとんど許されていなかった。
同じ時代、フランスではエロイーズが修道女として学識を知られ、アベラールとエロイーズの往復書簡を残していた。だが学問の言葉で神学を論じることは、なお男性の聖職者の領分だった。ヒルデガルトが自分の言葉に権威を持たせるには、それが自分の考えではなく、神から見せられたものだと示すしかなかった。

1136年にユッタが死ぬと、ヒルデガルトは修道女たちの長に選ばれた。1141年、42歳のとき、天が開いて火のような光が頭に注ぎ込み、見たことを書き記せという声を聞いた、と彼女は書いている。それから10年をかけて書き上げたのが『スキヴィアス』である。「主の道を知れ」という意味の題で、天地の創造から人の堕落、救い、世の終わりまでを、26の幻とその解き明かしとして描いた。書き取りを助けたのは、修道士フォルマールと、彼女が深く信頼した修道女リヒャルディスだった。
ヒルデガルトは、自分の幻を教会の権威に認めさせる道を選んだ。1146年ごろ、当時最も影響力のあった修道士、クレルヴォーのベルナルドゥスに手紙を書き、幻をどう受け止めるべきか教えを請うた。1147年から翌年にかけてトリーアで開かれた会議では、教皇エウゲニウス3世が書きかけの『スキヴィアス』の一部を取り寄せて自ら読み上げ、書き続けるよう励ましたと伝えられる。教会の頂点から公に認められたことになる。

認められたことで、彼女は動けるようになった。1150年ごろ、ディジボーデンベルクの修道士たちの反対を押し切り、ビンゲン近くのルーペルツベルクに自分たちの修道院を建てて移った。修道士たちが許さなかったとき、彼女は重い病に倒れて動けなくなり、許しが出ると回復したという。
その後も書き続けた。人の徳と悪徳を論じた書、宇宙と人の体の対応を描いた書、薬草や石、動物の効き目と病の治し方をまとめた書がある。70曲を超える聖歌を作り、徳と悪魔が魂を奪い合う音楽劇も書いた。自分で作った文字と、千語あまりの単語からなる不思議な言葉まで残している。

彼女の歌は、単旋律で歌われるグレゴリオ聖歌(グレゴリオ聖歌の成立)の伝統に立ちながら、大きな跳躍と広い音域を持ち、当時の聖歌の型から大胆にはみ出している。20世紀の後半に録音が出ると、思いがけず多くの聴き手を得た。修道院の中で書かれた旋律が、800年あまりを経て、再び人前で歌われるようになった。
60代になると、ライン川やマイン川沿いの町々を回り、修道士や聖職者、一般の人々を前に説教した。聖職者の堕落を厳しく責める言葉だった。女性が公衆の前で説教するのは、この時代には異例のことである。皇帝フリードリヒ1世や教皇とも手紙をやり取りし、遠慮のない忠告を送っている。
晩年、破門された貴族を修道院の墓地に葬ったことで、修道院は礼拝を禁じられた。彼女は、その人は死ぬ前に教会と和解していたと言って譲らず、亡くなる少し前に禁令は解かれた。1179年、81歳で没した。
『スキヴィアス』のルーペルツベルク写本には、幻の情景を描いた鮮やかな挿絵が添えられていたが、第二次世界大戦の末期に疎開先のドレスデンで失われた。戦前に作られた手描きの写しが残っている。幻を片頭痛の前ぶれの光と結びつける見方もある。2012年、ヒルデガルトは正式に聖人とされ、教会博士の称号を受けた。