ステファノの殉教
概要
エルサレムの教会の7人の執事の一人が、「あなたたちは預言者を殺した」と最高法院で語り、石で打たれた。最初の殉教者。石を投げる人々の上着を、タルソスの若者サウロが預かっていた。サウロは信徒を捕えに行く道で倒れ、パウロになった。
場所
31.77°N 35.21°E · イスラエル/パレスチナ
関わった人(2)
ステファノ?–AD34年頃 · 殉教パウロAD5年頃–AD65年頃 · 上着を預かっていた本文
イエスの処刑の後、エルサレムに残った弟子たちのもとには、信じる人々が集まっていた。そこには、パレスチナで育ちアラム語を話すユダヤ人と、地中海の各地から来てギリシア語を話すユダヤ人がいた。新約聖書の『使徒言行録』によると、ギリシア語を話す側の寡婦たちが毎日の食べ物の配給で後回しにされている、という不満が起きた。使徒たちは、祈りと教えに専念するため、配給を任せる7人を選んだ。後の教会はこの7人を最初の執事と見なしている。ステファノはその筆頭に名が挙がる人物で、「信仰と聖霊に満ちた人」と記されている。7人とも名前はギリシア語の名であり、ギリシア語を話す人々の側から選ばれたと考えられる。
ステファノは配給の世話にとどまらず、ギリシア語を話すユダヤ人の会堂で論じ合った。相手は言い負かされ、ステファノを訴える。「この男はモーセと神をけがす言葉を吐いている」「ナザレのイエスがこの神殿を壊すと言った」。神殿と律法を軽んじている、という訴えだった。ステファノは、ユダヤの最高法院(サンヘドリン)の前に引き出される。

大祭司に問われたステファノは、長い弁明をした。アブラハムから、ヨセフ、モーセ、ダビデとソロモンの神殿まで、イスラエルの歴史をたどり、神は人の手で造った家には住まない、と語る。そして最後に、聞く者たちを責めた。あなたたちの先祖は預言者を迫害し、あなたたちは正しい方を殺した、と。人々は激しく怒った。ステファノが天を見上げ、神の右に人の子が立っているのが見える、と言うと、人々は耳をふさいで叫び、彼を町の外へ引きずり出して石を投げた。
ステファノは、主イエスよ、私の霊を受けてください、と祈り、ひざまずいて、この罪を彼らに負わせないでください、と叫んで息を引き取ったと書かれている。十字架の上のイエスの言葉に重なるように描かれている。

石を投げる者たちは、脱いだ上着を一人の若者の足もとに置いた。タルソス生まれのサウロである。『使徒言行録』は、サウロがこの殺害に賛成していたと書く。この日を境に、エルサレムの信徒への迫害が始まり、使徒たちを除く多くの者がユダヤとサマリアの地方へ散った。サウロは家々に押し入って信徒を捕らえた。やがて信徒を捕らえにダマスカスへ向かう途中、光に打たれて倒れ、回心する。後のパウロである。
ローマの支配のもとで、最高法院が死刑を執行できたのかには疑問があり、正式な裁判の判決というより、怒った群衆による私刑だったと見る研究者も多い。年代も確かではなく、イエスの死から数年後、30年代の半ばとされる。
迫害は、皮肉にも教えを外へ広げた。散った人々はフェニキアやキプロス、シリアのアンティオキアまで行き、ユダヤ人以外にも語りかけるようになる。アンティオキアの信徒は、初めて「キリスト者」と呼ばれた。後のパウロの伝道旅行も、この町から出発している。ステファノは最初の殉教者として敬われ、西方の教会では12月26日、クリスマスの翌日が祝日になっている。
ステファノという名は、ギリシア語で「冠」を意味する。最初に殉教の冠を受けた者にふさわしい名だと、後の教父たちは好んで語った。415年には、エルサレムの近くでステファノの遺骨が見つかったとされ、各地の教会に分けられて信仰を集めた。ヨーロッパの絵画では、ステファノは執事の服を着た若者として描かれ、手や頭に石を載せた姿で見分けられる。ステファノの弁明は、神殿と律法に縛られない信仰を語ったものとして読まれ、ユダヤ教の一派だった運動が、やがて別の宗教として歩き出す最初の一歩と見なされてきた。