カノッサの屈辱

概要
皇帝が雪のなか三日間立ち、教皇に赦しを乞うた。世俗の権力と教会の力関係を示す場面として残る。
場所
44.58°N 10.45°E · イタリア・エミリア=ロマーニャ州
本文
争点は、司教を任命するのは誰か、だった。司教は信仰を導く職であると同時に、広い領地を持ち、兵を出す世俗の領主でもある。とくにドイツの王たちは、オットー1世の時代から司教や修道院長を自分で選び、王に忠実な彼らを統治の柱にしてきた。任命権は、そのまま王権の土台だった。
11世紀の教会では、これに反発する改革の運動が強まっていた。聖職を金で売り買いすること、聖職者が妻を持つことを禁じ、教会を俗人の支配から切り離そうとする運動である。1073年に教皇となったグレゴリウス7世(本名ヒルデブラント)はその中心にいた人物で、俗人が聖職を授けることを禁じ、教皇は皇帝をも廃することができる、とまで主張した。

ドイツ王ハインリヒ4世は、父の死によって6歳で王位に就き、成人してからは国内の諸侯、とくにザクセンの反乱に手を焼いていた。1075年にザクセンを抑えると、北イタリアのミラノ大司教の任命をめぐって教皇と正面から衝突する。1076年1月、ハインリヒはヴォルムスに司教たちを集め、教皇の廃位を宣言した。教皇への手紙の宛名は、「いまや教皇ではなく偽の修道士であるヒルデブラントへ」だったとされる。
教皇の返事は破門だった。2月、グレゴリウスはハインリヒを破門し、王位を停止して、臣下を忠誠の誓いから解いた。これが効いた。もともと王に不満を持っていたドイツの諸侯が、破門を口実に離れはじめる。10月、諸侯はトリブールに集まり、1年以内に破門が解かれなければ王として認めない、翌年の2月にアウクスブルクで教皇を招いて王を裁く、と決めた。

教皇がドイツに来て諸侯と並んで裁けば、ハインリヒに勝ち目はない。彼はその前に教皇に会うことにした。1076年の暮れ、妻と幼い子を連れ、真冬のアルプスをモン・スニ峠から越えた。道は凍り、王妃たちは牛の皮に包まれて斜面を引き下ろされたと年代記は書いている。
教皇はちょうどアウクスブルクへ向かう途中だった。王が兵を連れて来たと考えた教皇は、北イタリアのトスカーナ女伯マティルダの城、カノッサに入って身を守った。1077年1月25日、ハインリヒは城門の前に現れる。王の衣を脱ぎ、粗末な毛の衣を着て、裸足で、雪の中に三日間立ち続けて赦しを乞うたと伝えられる。城の主マティルダと、ハインリヒの名付け親でもあったクリュニー修道院長ユーグが間に入った。

1月28日、教皇は破門を解いた。聖職者として、悔い改めた罪人を拒むことはできない。拒めば、破門を政治の道具にしていると見られる。
だから、短い目で見ればこの場面は皇帝の勝ちだった。破門が解けたことで、諸侯は王を廃する口実を失った。それでも諸侯は3月に対立王ルドルフを立て、ドイツは内戦になる。1080年、グレゴリウスはハインリヒを再び破門したが、今度は効き目が薄かった。同じ年にルドルフは戦死し、ハインリヒは自分の側の対立教皇を立てる。1084年にはローマを占領して、対立教皇の手で皇帝の冠を受けた。

グレゴリウスは、南イタリアのノルマン人の軍に救い出されたが、その軍がローマで略奪を働いたため市民の反感を買い、ローマにいられなくなった。1085年、南のサレルノで亡くなる。「私は正義を愛し、不義を憎んだ。それゆえに流謫の地で死ぬ」という最期の言葉が伝えられている。ハインリヒのほうも、晩年は息子に背かれて退位を迫られ、1106年に亡くなった。
叙任権をめぐる争いは、二人の死後も続いた。決着がつくのは1122年のヴォルムス協約である(ヴォルムス協約)。司教を聖職者として叙任するのは教会、領地を与えるのは皇帝、と二つに分ける妥協だった。その間の1095年には、教皇ウルバヌス2世が西欧の騎士たちに十字軍を呼びかけている(十字軍の呼びかけ)。皇帝を通さずに西欧全体を動かせるほど、教皇の権威は高まっていた。

カノッサの場面は、後の時代に「屈辱」として記憶された。1872年、ドイツ帝国の宰相ビスマルクはカトリック教会と争った際、議会で「我々はカノッサへは行かない」と言っている。世俗の権力が教会に頭を下げることの代名詞として、いまもこの城の名が使われる。ただし当時の事情に即して見れば、雪の中に立ったのは、追いつめられた王が打った外交の一手だった。