できごと

モンタノス派

Montanism
AD170年頃
年に諸説あり重要度 3
モンタノス派に関わる図版:Acts-2
Acts-2 Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · CC0

概要

フリギアの男が「私は聖霊」と言い、二人の女預言者プリスキラとマクシミラが続いた。終末は近い、ペプザに新しいエルサレムが降る。断食、殉教、女の預言。テルトゥリアヌスが入った。教会は「預言は終わった」と決めた。それで教会は教会になった。

場所

ペプザ
38.50°N 29.60°E · トルコ・フリギア

本文

2世紀の半ば、小アジアの内陸フリギアの村アルダバウで、洗礼を受けて間もないモンタノスという男が、突然恍惚の状態に陥り、聞き慣れない言葉で預言を語り始めた。後に彼を批判した人々は、彼がもとは異教の神官だったとも書いているが、確かではない。始まった年は、教父エウセビオスの記述からは172年頃、エピファニオスからは150年代と読め、説が分かれる。

モンタノスは、自分の口を通して神が語っていると主張した。「私は天使でも使者でもない、主なる神、全能の父が来たのだ」という言葉が、批判者の引用として伝わっている。ヨハネ福音書でイエスが遣わすと約束した「弁護者(パラクレートス)」、つまり聖霊が、自分を通して現れたと受け取られた。二人の女性、プリスキラとマクシミラが続いて預言者となった。二人は夫のもとを去ったとされる。

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Wikimedia Commons Anonymous (photo by Adrian Pingstone) · Public domain

彼らの教えは「新しい預言」と呼ばれた。プリスキラは、キリストが光り輝く衣をまとった女性の姿で現れ、フリギアの町ペプザこそ天のエルサレムが降りてくる聖地だと告げた、と語ったと伝えられる。人々はペプザと近くのティミオンに集まり、終末を待った。マクシミラは、私の後にもう預言者は現れない、終わりが来る、と言ったとされる。

運動は厳しい生活を求めた。断食を増やし、乾いた食べ物だけをとる期間を設け、再婚を禁じ、迫害を受けたときに逃げることを戒めた。殉教は避けるべきものではなく、むしろ望むべきものとされた。テルトゥリアヌスは、この預言を受け入れた自分たちを「霊の人」と呼び、受け入れない一般の信徒を「魂の人(ただの人)」と呼んで見下した。女性が預言者として語ることを認め、後の時代の記録には、女性を司教や司祭に就けた一派があったとも書かれている。

小アジアの司教たちは、たびたび集まってこの預言を検討し、悪霊によるものとして退けた。こうした集まりは、教会の歴史で最も早い時期の教会会議の一つとされる。ローマでも議論があり、テルトゥリアヌスによれば、ローマの司教が一度は預言を認めかけたが、プラクセアスという人物の働きかけで撤回したという。批判者の中には、モンタノスとマクシミラは首を吊って死んだという噂を書き留めた者もいるが、彼ら自身もそれが確かではないと断っている。

運動は北アフリカにも広がった。カルタゴの著述家テルトゥリアヌスは、テルトゥリアヌス『護教論』でキリスト教を弁護した教会きっての論客だったが、207年頃から「新しい預言」に共鳴し、再婚を姦淫と同じだと論じるなど、厳しい倫理を説くようになった。203年にカルタゴで殉教した女性ペルペトゥアの殉教記録も、その幻を重んじる書きぶりから、この運動に近い人が編んだとみる研究者がいる。

4世紀にローマ帝国がキリスト教を公認し、やがて国教とすると、モンタノス派は異端として法で禁じられた。6世紀、ユスティニアヌス1世の時代には、エフェソスの司教ヨハネスがペプザの聖所を壊し、モンタノスと女預言者たちの骨を掘り出して焼いたと伝えられる。迫害を受けた信徒が教会に閉じこもって火を放ったという話も、6世紀と8世紀の記録にある。運動はそのあたりで姿を消した。長いあいだ所在の分からなかったペプザとティミオンは、2000年前後に、トルコ西部ウシャク県で跡とみられる遺跡と碑文が見つかったと報告されている。

モンタノス派との争いは、教会の形を決めるうえで大きな意味を持った。神の啓示は使徒の時代で完結しており、聖霊は個人の恍惚ではなく、司教を中心とする教会の秩序と、やがて正典として定まる聖書を通して働く、という考え方が固まっていったからである。社会学者マックス・ヴェーバーの言葉を借りれば、カリスマ(個人の霊的な力)が制度へと「日常化」する過程の一つだった。20世紀に異言や預言、終末への期待を掲げるペンテコステ派が広がると、2世紀のこの運動はその先駆けとして改めて注目されるようになった。

同じ時代のできごと

『アルマゲスト』AD150年頃ユスティノスの殉教AD165年アプレイウス『黄金の驢馬』AD170年頃アントニヌスの疫病165年大秦王安敦の使者AD166年党錮の禁AD166年マルコマンニ戦争AD166年ガレノスの医学AD169年(皇帝の侍医になる)
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