啓蒙者グレゴリオス
概要
父はアルメニア王を暗殺したパルティア人。カッパドキアで洗礼を受けて育ち、王に仕え、王を癒し、王と国を改宗させ、エチミアジンに大聖堂を建てた。「啓蒙者」。息子と孫が総主教を継ぎ、右手の遺骨で新しい総主教が祝別される。
関わったできごと(1)
アルメニアのキリスト教国教化AD301年(伝承) · 洗礼を授けた本文
啓蒙者グレゴリオスは、アルメニアの王と国をキリスト教に改宗させた人物である。アルメニア語ではグリゴル・ルサヴォリチといい、ルサヴォリチは「照らす者」を意味する。アルメニアは、ローマ帝国よりも早く、国としてキリスト教を受け入れた最初の国とされる(アルメニアのキリスト教国教化)。その中心にいたのがこの人で、アルメニアの教会は今も自らを、使徒ではなく彼の名で呼ぶことがある。

彼の生涯を伝えるのは、主に5世紀にまとめられたアガタンゲロスの名の伝記で、多くの奇跡と伝承を含んでいる。以下の話も、その骨格の上に伝わってきたものである。
3世紀の後半、アルメニアはローマと、新しく興ったペルシアのササン朝ペルシアとの間で揺れていた。グレゴリオスの父アナクはパルティアの貴族で、ペルシアの側に誘われ、アルメニア王ホスローを暗殺したとされる。報復としてアナクの一族は殺されたが、幼い子が一人、乳母に抱かれて逃げ延びた。それがグレゴリオスである。乳母は彼をローマ領のカッパドキアのカイサリアへ連れて行き、彼はそこでキリスト教徒として育てられた。のちに結婚して二人の息子をもうけたが、やがて妻と別れて信仰の道に専念したという。

成人したグレゴリオスはアルメニアに戻り、殺された王の息子ティリダテス3世に仕えた。父の罪を償うためだったと伝記は語る。王は彼が仇の子であることを知らなかった。ところがある祭りの日、グレゴリオスは女神アナヒトに花輪を捧げるよう命じられて拒み、キリスト教徒であることが露見した。王は彼を十二の責め苦にかけ、それでも屈しないので、都アルタシャトの近くの深い穴に投げ込んだ。穴の中で彼は13年とも15年とも言われる年月を生き延び、一人の寡婦がひそかにパンを落として養ったという。この穴の上には、のちにホル・ヴィラプ(深い穴)の修道院が建てられ、今も梯子で底まで下りることができる。修道院の向こうには、アララト山がそびえている。
伝記によれば、やがて王は、ローマから逃れてきた修道女リプシメとその仲間たちを殺し、その罪で正気を失って獣のようになった。王の妹が夢を見て、穴の中のグレゴリオスだけが兄を救えると告げた。長い年月ののちに穴から引き上げられたグレゴリオスは、殉教した修道女たちを葬り、王を癒した。王は家臣とともに洗礼を受け、キリスト教は王国の信仰となった。伝統的にはこれを301年とするが、研究者の多くは、ローマでミラノ勅令が出たのちの314年ごろと考えている。いずれにしても、ローマ帝国でキリスト教徒への最後の大迫害(ディオクレティアヌスの大迫害)が行われた時期と前後している。

グレゴリオスは幻の中で、キリストが天から降りてきて、金の槌で大地を打つのを見たという。その場所に建てられたのがエチミアジンの大聖堂で、その名は「独り子が降りた所」を意味する。今もアルメニア使徒教会の総本山がここにある。グレゴリオス自身はカイサリアに赴いて司教に叙され、アルメニアの最初の総主教(カトリコス)になった。古い神殿は壊され、その跡に教会が建てられた。
彼の後を継いだのは息子のアリスタケスで、ニケーア公会議に出席したと伝えられる。続いてもう一人の息子ヴルタネスが、さらにその子孫が総主教を継いだ。4世紀から5世紀の前半にかけて、アルメニアの総主教の座は多くがグレゴリオスの家から出ている。その最後の一人サハクのもとで、メスロプ・マシュトツがアルメニア文字を作り、聖書がアルメニア語に訳された。

晩年のグレゴリオスは総主教の座を息子に譲り、山の洞窟に籠もって祈りの日々を送った。誰にも告げずにそこで死に、のちに羊飼いがその遺体を見つけたと伝えられる。死んだ年は330年前後とされる。
アルメニアの教会は、のちにカルケドン公会議の決定を受け入れず、ローマやコンスタンティノープルの教会とは別の道を歩んだ。国が滅び、民が散っても、教会と文字が民族をつなぐ柱であり続けた。その源にいるのがグレゴリオスである。

彼の右手の遺骨は銀の腕の形の容器に納められ、エチミアジンに伝わる。新しい総主教の叙任や、7年に一度の聖油の祝別の儀式で、今もこの右手が使われる。レバノンのアンテリアスにある、もう一つの総主教座にも、彼の右手とされる聖遺物がある。ナポリの教会に長く伝わっていた遺骨の一部は、2000年に教皇ヨハネ・パウロ2世からアルメニアへ返され、改宗1700年を記念して翌年エレバンに建てられた聖グレゴリオス大聖堂に納められた。