人物

カール大帝

Carolus Magnus
AD748年頃 – AD814年(享年66・推定)
フランク王国重要度 5

概要

西ヨーロッパの大半をまとめ、教皇から皇帝の冠を受けた。古典の写本を集めさせ、学問を復興させる。

所属

フランク王国

関わったできごと(5)

ランゴバルド王国の滅亡AD774年 · 王を兼ねた十分の一税AD779年 · 法として義務づけたヴェルデンの虐殺AD782年 · 命じたカール大帝の戴冠AD800年12月25日 · 当人『ロランの歌』AD1100年頃 · 皇帝

本文

748年頃に生まれた。生年は742年から748年まで説が分かれ、場所も分かっていない。父はフランク王国の宮宰から王になったピピン3世(ピピン3世(小ピピン))、母はベルトラダである。祖父は、732年のトゥール・ポワティエ間の戦いでイスラーム勢力の北上を食い止めたとされるカール・マルテルだった。

トゥール・ポワティエ間の戦いに関わる図版:Steuben - Bataille de Poitiers
トゥール・ポワティエ間の戦いWikimedia Commons Charles de Steuben · Public domain

フランク王国は、メロヴィング家の王を名目に立て、宮宰のカロリング家が実権を握る国だった。751年、父ピピンは教皇の承認を得て名目の王を修道院に押し込め、自ら王になった。754年には、ローマ教皇がアルプスを越えてフランクの地を訪れ、ピピンと二人の息子に聖油を注いだ。幼いカールもそこにいた。父はその見返りに、イタリアのランゴバルド人から奪った土地を教皇に贈っている(ピピンの寄進)。フランクの王と教皇の結びつきは、ここから始まる。

768年に父が死ぬと、王国は弟カールマンと分けて継いだ。兄弟の仲は悪かったが、771年に弟が若くして死に、カールは単独の王になった。

カール大帝の肖像(デューラー画)
カール大帝の肖像(デューラー画)Wikimedia Commons Albrecht Dürer · Public domain

治世の半分以上は戦いに費やされた。最も長く、最も血なまぐさかったのは、北東の異教徒ザクセン人との戦いで、772年から30年余り続いた。カールはザクセン人の聖なる柱を倒し、反乱が起きるたびに兵を送った。782年には、反乱に加わったザクセン人4500人をフェルデンで処刑したと王国の年代記は記す。数については誇張とする見方もある。キリスト教の洗礼を拒む者を死罪とする法も出された。ザクセンの指導者ヴィドゥキントが洗礼を受けたのは785年である。

774年、教皇の求めに応じてイタリアへ攻め込み、ランゴバルド王国を滅ぼして、自らランゴバルドの王を兼ねた(ランゴバルド王国の滅亡)。778年にはスペインへ遠征したが、帰り道、ピレネー山中のロンスヴォーで後衛の部隊がバスク人に襲われて全滅した(ロンスヴォーの戦い)。このとき死んだ辺境伯ローランの名は、のちに叙事詩『ローランの歌』で英雄として歌われる。詩では敵はイスラーム教徒に置き換えられている。

16世紀発行の『ローランの歌』におけるカールの肖像
16世紀発行の『ローランの歌』におけるカールの肖像Wikimedia Commons Public domain

東では、バイエルンを併合し、ドナウ川流域の遊牧民アヴァールを破って、その莫大な財宝を手に入れた。こうして、いまのフランス、ドイツ、ベルギー、オランダ、スイス、オーストリア、北イタリアにまたがる広大な領域が、一人の王の下にまとまった。西ヨーロッパの大半をまとめ、教皇から皇帝の冠を受けた。

799年、ローマで教皇レオ3世が反対派に襲われ、目と舌を傷つけられそうになって、アルプスを越えてカールのもとへ逃げてきた。カールは翌年ローマへ行き、教皇の立場を回復させた。800年のクリスマスの日、サン・ピエトロ大聖堂で祈りを捧げていたカールの頭に、教皇が冠を載せ、集まった人々が皇帝の名を唱えた(カール大帝の戴冠)。西ローマ帝国の滅亡から300年余りで、西方に皇帝が戻った。

カール大帝の戴冠に関わる図版:Charlemagne denier Mayence 812 814
カール大帝の戴冠Wikimedia Commons Charlemagne. Autorité émettrice de monnaie indéterminé. Atelier monétaire. Émetteur · Public domain

側近アインハルトの伝記によれば、カールは、教皇の意図を前もって知っていたら、その日は大聖堂に入らなかっただろう、と言ったという。本当に驚いたのか、謙遜を装ったのか、教皇が冠を授ける形になることを嫌ったのか、解釈は分かれる。東のコンスタンティノープルの皇帝は、この戴冠を認めなかった。正式に認めるのは812年である。

アッバース朝のカリフ、ハールーン・アッラシードとは使節を交わし、カリフから贈られた象がアーヘンに届いて人々を驚かせた。

カール大帝とローマ教皇ハドリアヌス1世
カール大帝とローマ教皇ハドリアヌス1世Wikimedia Commons Anonymous Unknown author editor: Antoine Vérard · Public domain

広い国を治めるため、各地に伯を置き、国王の使者を二人一組で巡回させて監督した。王の命令は条項を並べた勅令として出された。貨幣も改め、銀1ポンドから240枚の銀貨を作る仕組みを定めた。この数え方は、イギリスでは1971年まで使われていた。

古典の写本を集めさせ、学問を復興させる。宮廷のあったアーヘンに、イングランドの学者アルクインをはじめ各地から学者を招き、宮廷の学校を開いた(アーヘンの宮廷学校)。修道院には学校を置くよう命じ、正しいラテン語で聖書や典礼の書を書き写させた。このとき広まった、丸みがあって読みやすい小文字の書体は、いま私たちが使う欧文の小文字のもとになっている。古代ローマのラテン語の作品の多くは、この時代の写本を通じて後の世に伝わった。

カール大帝像(ベルギー、リエージュ)
カール大帝像(ベルギー、リエージュ)Wikimedia Commons Jacques Renier · Public domain

本人は文字を書くのが得意ではなかった。アインハルトによれば、枕の下に書板を置き、眠れぬ夜に字の練習をしたが、始めたのが遅かったので上達しなかったという。ラテン語を話し、ギリシア語も聞いて分かった。背が高く、首は太く、声は体のわりに高かった。水泳と狩りを好み、アーヘンの温泉で家臣たちと泳いだ。

何度も結婚し、多くの側室を持ち、18人ほどの子をもうけた。娘たちを手元に置きたがり、正式に結婚させなかった。娘たちは宮廷で恋人を持ち、子を産んだが、父はそれを黙認したと伝えられる。

ジャン・フーケ「カールの戴冠」(1455年-1460年)
ジャン・フーケ「カールの戴冠」(1455年-1460年)Wikimedia Commons Jean Fouquet, Tours · Public domain

813年、ただ一人生き残った嫡出の息子ルートヴィヒを共同の皇帝とし、翌814年1月28日、アーヘンで死んだ。60代半ばだった。アーヘンの宮廷礼拝堂に葬られた。八角形のその礼拝堂は、いまも大聖堂の中心として残っている。

孫の代の843年、ヴェルダン条約で帝国は三つに分けられた。西はのちのフランスに、東はのちのドイツにつながっていく。フランス人はシャルルマーニュ、ドイツ人はカール大帝と、それぞれ自分たちの始祖として呼ぶ。いま、ヨーロッパの統合に尽くした人に贈られる賞は、アーヘンで「カール賞」と名づけられている。キリスト教とローマの遺産とゲルマンの王権を一つにまとめた人として、ヨーロッパの父と呼ばれることがある。その帝国が、征服と強いられた改宗の上に築かれていたことも、また事実である。

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