バル・コクバの乱
概要
ハドリアヌスがエルサレムをローマの街に建て直そうとして、ユダヤ人が三年半戦った。指導者は「星の子」と呼ばれ、メシアとされた。鎮圧のあと、ユダヤ人はエルサレムへの立ち入りを禁じられ、属州の名がユダヤからパレスティナに変えられた。
場所
31.77°N 35.21°E · イスラエル/パレスチナ
関わった人(2)
バル・コクバ?–AD135年 · 指導者ハドリアヌス76年1月24日–138年7月10日 · 皇帝本文
70年、ローマ軍はユダヤの反乱を鎮め、エルサレムの神殿を焼いた(エルサレム神殿の破壊)。3年後には最後の砦マサダも落ちた(マサダの陥落)。神殿を失ったユダヤ教は、祭司ではなくラビと呼ばれる律法の学者たちを中心に、律法の学びと会堂での祈りの宗教へと姿を変えていった。それでも、いつか神殿が建て直されるという望みは消えなかった。115年から117年には、エジプトやキュレネ、キプロスのユダヤ人がローマに対して蜂起し、激しい戦いの末に鎮められている。
ハドリアヌスは帝国の各地を巡る皇帝だった。130年ごろ東方を訪れた皇帝は、廃墟のままのエルサレムを、ローマの植民市として建て直すと決めた。新しい町の名は、自分の氏族名アエリウスと、ローマの最高神ユピテル・カピトリヌスから取ってアエリア・カピトリナ。神殿の丘には、ユピテルの神殿が置かれるはずだった。割礼を禁じたことが反乱の原因だとする史料もあるが、その禁令がいつ出されたかについては説が分かれる。

132年、シメオン・ベン・コシバという人物が兵を挙げた(バル・コクバ)。当時最も尊敬されたラビの一人、アキバ・ベン・ヨセフは、民数記の「ヤコブから一つの星が進み出る」という一節を彼に当てはめ、「星の子」(バル・コクバ)と呼んで、待ち望まれたメシアだと認めたと伝えられる。ほかのラビの中には、アキバよ、あなたの顎に草が生えても、ダビデの子はまだ来ない、と言って反対した者もいたという。
反乱軍はユダヤの丘陵地帯を押さえ、地下に掘り巡らせた隠れ家と通路を拠点に、ローマ軍に打撃を与えた。シメオンは「イスラエルの君主」を名乗り、自分たちの貨幣を打った。ローマの貨幣の上に打ち直したもので、表には神殿の正面の姿、「イスラエルの贖いの第1年」「エルサレムの自由のために」といった文字が刻まれた。エルサレムそのものを取り戻したかどうかは、はっきりしていない。

ローマは本気で応じた。皇帝は、当時ブリタニアの総督で最も有能な将軍とされたユリウス・セウェルスを呼び寄せ、各地から軍団を集めた。セウェルスは正面からの決戦を避け、反乱軍の拠点を一つずつ包囲して、食糧を断っていった。ローマの側の損害も大きく、ハドリアヌスが元老院に送った報告からは、皇帝の書簡の決まり文句だった「私と軍団は健やかである」の一句が省かれていた、とカッシウス・ディオは伝える。
135年、エルサレムの南西にあるベタルの砦が落ち、シメオンは死んだ。ユダヤ教の伝承は、ベタルの陥落を、神殿が焼かれたのと同じアブの月の9日のこととしている。カッシウス・ディオは、58万人が戦いで殺され、50の砦と985の村が破壊され、飢えと病と火で死んだ者は数えきれないと書いた。数字には誇張があるとしても、ユダヤの地の人口が激減したことは確かである。ラビ・アキバも捕らえられ、鉄の櫛で肉を裂かれる拷問の中で、祈りの言葉を唱えながら死んだとタルムードは伝える。

ハドリアヌスは、ユダヤ人がエルサレムに入ることを禁じた。町はアエリア・カピトリナとして建て直され、属州の名はユダヤから「シリア・パレスティナ」に改められた。パレスティナという呼び名は、かつてこの地の海岸に住んだペリシテ人に由来する。ユダヤの地という名を地図から消す意図があったとみる研究者が多い。ユダヤの学問の中心は北のガリラヤへ移り、そこでのちにミシュナが編まれる。民族として独立を目指す戦いは、このあと1800年あまり起きなかった。
後のラビたちは、シメオンを「バル・コジバ」(嘘の子)とも呼んだ。偽りのメシアだったという評価である。その実像は長く伝承の中にしかなかったが、1960年から61年にかけて、死海の西のナハル・ヘヴェルの谷にある「手紙の洞窟」で、イスラエルの考古学者イガエル・ヤディンが、シメオンが部下に宛てた手紙の束を見つけた。手紙には「シメオン・ベン・コシバ」と署名があり、本名がようやく確かめられた。物資の調達を急がせ、命令に従わない者を厳しく叱る文面からは、伝説の救世主ではなく、追い詰められた戦いを指揮する一人の人物の姿が浮かび上がる。