ヨシヤの改革
概要
神殿の修理で「律法の書」が見つかった。王は衣を裂き、地方の聖所を全部壊し、礼拝をエルサレム一か所にし、過越を祝わせた。見つかった書は申命記の元と考えられている。13年後、王はエジプト軍の前に出て死んだ。
場所
31.77°N 35.21°E · イスラエル/パレスチナ
関わった人(1)
ヨシヤBC648年–BC609年 · 王本文
紀元前7世紀のユダ王国は、新アッシリア帝国の影の下にあった。北のイスラエル王国はすでに紀元前722年に滅ぼされ(イスラエル王国の滅亡)、住民は各地へ移された。南のユダはセンナケリブのエルサレム包囲をしのいだが、その後はアッシリアに貢ぎ物を納める属国として生き延びた。列王記によれば、ヨシヤの祖父マナセは55年にわたって王位にあり、その間、エルサレムの神殿には異国の神々の祭壇が置かれ、マナセは自分の息子に火の中を通らせたという。聖書はマナセを、ユダで最も悪い王として描いている。
マナセの子アモンは即位して2年で家臣に暗殺された。すると「国の民」と呼ばれる人々が暗殺者たちを討ち、アモンの子でまだ8歳のヨシヤを王に立てた。紀元前640年ごろのことである。幼い王の周りには、祭司や書記の一団がいたと考えられる。ヨシヤが成人するころ、帝国の側に大きな変化が起きた。アッシュルバニパルが紀元前630年前後に世を去ると、アッシリアは内紛とバビロニアの反乱で急速に崩れ始めた。ユダを縛っていた力が、目に見えて緩んだ。

ヨシヤの治世の18年目、紀元前622年。王は書記シャファンを神殿へ遣わし、修理のための銀の勘定をさせた。そのとき大祭司ヒルキヤが言った。主の神殿で律法の書を見つけた、と。シャファンはその書を王の前で読み上げた。列王記下22章は、それを聞いた王が衣を裂いたと伝える。我々の父祖はこの書の言葉に聞き従わなかった、そのために主の怒りが燃えている、と。
王は女預言者フルダのもとへ使いを送り、主の意志を尋ねさせた。フルダの答えは厳しかった。この書に書かれた災いは、この場所と住民の上に必ず来る。ただし、へりくだって衣を裂いたあなたは、その災いを目にすることなく、安らかに墓に葬られるだろう。王は長老たちと民を神殿に集め、見つかった書を読み聞かせ、その言葉を守る契約を主の前で結んだ。
続く改革は徹底していた。列王記下23章によれば、神殿からバアルとアシェラと天の万象のために作られた祭具が運び出され、エルサレムの外のキデロンの野で焼かれた。歴代のユダの王たちが太陽に捧げて神殿の入口に置いた馬は取り除かれ、太陽の戦車は焼かれた。エルサレムの南のヒンノムの谷にあるトフェト、つまり子供を火の中に通らせて神に捧げたとされる場所は、二度と使えないよう汚された。そしてユダの全土、北のゲバから南のベエル・シェバまで、町々にあった「高き所」と呼ばれる地方の聖所が壊され、そこに仕えていた祭司たちはエルサレムへ集められた。
改革はユダの外にも及んだ。かつて北王国の初代王ヤロブアムが建てたベテルの祭壇を、ヨシヤは打ち壊して砕き、近くの墓から骨を取り出してその上で焼いたという。さらに旧北王国のサマリアの町々の聖所も壊した。アッシリアが弱っていたからこそ、かつての属州にまで手を伸ばすことができた。宗教の改革は、ダビデとソロモンの王国(ダビデのエルサレム)を取り戻そうとする政治の動きと重なっていた。
改革の仕上げは、過越の祭りだった。王は民に、契約の書に記された通りに過越を祝うよう命じた。列王記は、士師がイスラエルを治めた時代から、このような過越が祝われたことはなかったと書き、さらにヨシヤについて、彼のように心を尽くしてモーセの律法に立ち返った王は、前にも後にもいなかったと最大の賛辞を贈っている。礼拝はエルサレムの神殿一か所に限られ、ほかの場所で神に犠牲を捧げることは許されなくなった。
見つかった「律法の書」とは何だったのか。1805年、ドイツの聖書学者デ・ヴェッテは、それが申命記の核となる部分、とくに12章から26章の法の集まりだと論じた。申命記12章は、主が選ぶ一つの場所でだけ犠牲を捧げよと繰り返し命じる。その場所の名をエルサレムとは書いていないが、ヨシヤの改革が行ったことと驚くほど重なる。この見方は、いまも多くの研究者に受け入れられている。
では、それは本当に古い書が「見つかった」のか、それとも改革を進める人々がその時に書いて、見つかったことにしたのか。この点は諸説ある。北王国の滅亡とともに南へ逃れてきた人々が持ち込んだ古い伝承を、ヨシヤの時代の書記たちがまとめ直した、という折衷の考え方もある。さらに20世紀には、申命記からヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記までが一つの歴史書として編まれたという説(申命記史家の説)が唱えられた。その最初の編集をヨシヤの時代に置き、捕囚の時代に書き足されたと見る研究者は多い。そうだとすれば、ヨシヤをダビデの再来として描く列王記そのものが、この改革の産物ということになる。考古学の側からは、改革の規模を聖書の記述ほど大きくは見られないという意見も出ている。
改革から13年後の紀元前609年、エジプトのネコ2世が軍を率いて北へ向かった。崩れかけたアッシリアの残党を助け、新しく勢いを得たバビロニアに対抗するためだった。ヨシヤはメギドでその前に立ちふさがった。なぜ戦いを挑んだのかは書かれていない。バビロニアの側についてアッシリアの再起を阻もうとした、あるいはエジプトの支配が及ぶのを嫌った、などと推測されている。列王記はただ、ネコが彼を見るなりメギドで殺したと記す。歴代誌はもう少し詳しく、王は射手に射られ、家臣たちが別の戦車に移してエルサレムへ運んだが、そこで死んだと伝える。39歳ほどだった。
フルダの預言は、半分だけ当たった。ヨシヤは災いを見なかったが、安らかに墓に入ったとは言いがたい。歴代誌は、預言者エレミヤがヨシヤのために哀歌を作ったと記している(エレミヤの預言)。ヨシヤの死後、ユダはエジプトとバビロニアの間で翻弄され、22年後の紀元前587年ごろ、ネブカドネザル2世の軍によってエルサレムは陥落し、神殿は焼かれた(バビロン捕囚)。列王記は、ヨシヤの改革をもってしても、マナセの罪に対する主の怒りは収まらなかったと説明している。

それでも、改革が残したものは大きい。礼拝を一つの場所と一冊の書に結びつけるという考え方は、神殿を失った捕囚の民が信仰を保つための支えになった。神殿が無くても、書は持ち運べる。書かれた律法を読み、守ることで神との契約を生きるという、のちのユダヤ教の形は、この改革にその源の一つを持っている。