ブルガリアの改宗

概要
ボリス1世がビザンツから洗礼を受け、ローマとコンスタンティノープルを天秤にかけて自前の教会を得た。スラヴ語の典礼がここで育つ。
場所
43.38°N 27.12°E · ブルガリア(第一次ブルガリア帝国の都)
関わった人(1)
ボリス1世?–AD907年 · 改宗した本文
7世紀の後半、黒海の北の草原から、ブルガールと呼ばれる騎馬の人々がドナウ川を渡ってきた。テュルク系の言葉を話し、ハンと呼ばれる君主に率いられていた。681年、彼らは東ローマ帝国に国を認めさせ、ドナウの南、いまのブルガリアの北東部に腰を据えた。都はプリスカ。そこにはすでにスラヴ人の農民が大勢住んでいて、少数のブルガールの貴族が、多数のスラヴ人の上に立つ形で国ができた。
最初のブルガリアの君主たちは、東ローマとたびたび刃を交えた。811年には、ハンのクルムが東ローマ皇帝ニケフォロス1世の軍を山中で全滅させ、皇帝の頭蓋骨を銀で飾って杯にしたと伝えられる。ブルガールの人々は天の神タングラを祀り、スラヴ人は自分たちの神々を祀っていた。ブルガリアは、キリスト教の国々に囲まれた異教の国だった。

852年ごろに即位したボリス1世は、この国のままでは立ちゆかないと考えた。ブルガールとスラヴ人は信じる神も言葉も違い、国を一つにまとめる柱がない。周りの国々はキリスト教の王国で、外交の席で対等に扱われるには、同じ神を戴く必要があった。問題は、誰から洗礼を受けるかだった。キリスト教を受け入れるということは、その教会の上に立つ者の影響を国に招き入れることでもある。
ボリスはまず、西の東フランク王ルートヴィヒと手を結び、フランクを通じてローマの教会から宣教師を迎えようとした。これに東ローマは強く警戒した。864年、皇帝ミカエル3世と叔父のバルダスは、陸と海から軍をブルガリアの国境へ進めた。ちょうどブルガリアは飢饉に見舞われていて、戦える状態ではなかった。ボリスは方針を変え、東ローマから洗礼を受けることを約束した。

洗礼は864年か、その翌年に行われた。ボリスは代父となった皇帝の名をとってミハイルという洗礼名を受けた。コンスタンティノープルの総主教フォティオス(フォティオス)は、キリスト教の君主のあり方を説く長い手紙を彼に送っている。だが国の中では、古い神々を捨てることに反発したブルガールの貴族たちが反乱を起こした。ボリスはこれを鎮め、首謀者とされた貴族52人を、その一族もろとも処刑した。
改宗したあとも、ボリスは東ローマの言いなりになるつもりはなかった。望んだのは、自分の国の中に自分の教会を持つこと、つまりブルガリアの教会の長を国内に置くことだった。東ローマがそれを認めないと見ると、866年、ボリスは今度はローマの教皇ニコラウス1世に使者を送り、100を超える問いを書き送った。教皇は一つ一つに答えた返書を送り、ローマの司教たちを派遣した。女性がズボンをはいてよいかという問いにまで答えたその返書は、いまも残っている。
ローマとコンスタンティノープルは、ちょうどこのころ、フォティオスをめぐって激しく対立していた(フォティオスの分裂)。ブルガリアをどちらの教会の下に置くかも、その争いの種になった。ボリスはローマに自分の望む人物を大主教に任じるよう求めたが、教皇は答えをはぐらかした。870年、コンスタンティノープルで開かれた会議は、ブルガリアの教会を東の教会に属させ、ブルガリアに大主教を置くことを認めた。ボリスは二つの教会を天秤にかけ、条件のよいほうを取ったのである。

それでも、ブルガリアの教会の言葉はギリシア語のままだった。転機は885年にやってくる。大モラヴィア国でメトディオス(メトディオス)が亡くなり、スラヴ語の典礼を守ろうとした弟子たちが国を追われた。クリメント、ナウムらの弟子たちはドナウを越えてブルガリアに逃れ、ボリスは彼らを迎え入れた。クリメントは西方のオフリドの地方へ送られ、何千人ものスラヴ人の聖職者を育てたと伝えられる。都の近くの学問所では、ギリシア文字をもとに、スラヴ語を書き表す新しい文字が作られた。のちにキュリロスの名をとってキリル文字と呼ばれる文字である。
889年、ボリスは位を長男に譲って修道院に入った。だが長男が古い神々の信仰を取り戻そうとすると、ボリスは修道院から出てきてこれを廃し、目をつぶして、三男のシメオンを位につけた。893年の会議で、スラヴ語が教会と国の言葉と定められ、都はプレスラフに移された。シメオン1世(シメオン1世)の時代、ブルガリアはスラヴ語の文学の黄金時代を迎え、その君主は皇帝を名乗るまでになる(シメオンの皇帝称号)。

ボリスは907年に亡くなり、のちに聖人とされた。彼の改宗の決断によって、ブルガリアは東の教会の側に立つことになった。そしてブルガリアで育ったスラヴ語の典礼とキリル文字は、のちにセルビアへ、さらにキエフのルーシへと伝わり、東ヨーロッパの正教の世界の言葉の土台になった。いまロシア語を書く文字は、ボリスが迎え入れた亡命者たちの仕事から始まっている。