テオドシウスの謝罪
概要
テッサロニキで暴動の報復に7000人を殺した皇帝を、ミラノ司教アンブロシウスが聖堂に入れなかった。皇帝は帝衣を脱いで公の場で悔い改めた。教会が皇帝を裁いた最初になる。
場所
45.46°N 9.19°E · イタリア・ロンバルディア州
関わった人(2)
アンブロシウスAD339年頃–AD397年4月4日 · 司教テオドシウス1世AD347年1月11日–AD395年1月17日 · 皇帝本文
テオドシウス1世はスペイン生まれの軍人で、379年、ゴート人との戦いでローマ軍が大敗し皇帝ウァレンスが戦死した翌年に、東方の皇帝に立てられた。熱心なニカイア派のキリスト教徒で、380年には、ニカイア信条に従う信仰を帝国の民のあるべき信仰と定める勅令を出している(キリスト教の国教化)。のちに西方の簒奪者たちを倒し、帝国の東西を一人で治めた最後の皇帝となる。
ミラノの司教アンブロシウスは、もとはローマの高級官僚だった。374年、ミラノの司教の選出をめぐって町が騒然となったとき、州の長官として事態を収めに来たアンブロシウスを、群衆が司教に推した。彼はまだ洗礼さえ受けていなかったが、1週間ほどのうちに洗礼を受けて司教になった。官僚として身につけた統治の才と弁舌で、アンブロシウスは西方の教会の最も力のある指導者になった。386年から翌年にかけて、ミラノで彼の説教を聞いていたアウグスティヌスは、回心してアンブロシウスから洗礼を受けている(アウグスティヌスの回心)。

皇帝と司教がぶつかったのは、これが初めてではなかった。388年、東方の辺境の町カリニクムで、キリスト教徒の群衆が修道士に率いられてユダヤ教の会堂を焼いた。テオドシウスは、会堂を地元の司教の費用で建て直すよう命じた。これを聞いたアンブロシウスは、ミラノの聖堂で皇帝の前に立ち、命令を取り消さないかぎりミサを続けない、と迫った。皇帝は折れた。
390年、ギリシア北部の大都市テッサロニキで暴動が起きた。町の守備隊を率いていたゴート人の将軍ブテリクスが、市民に人気のある戦車競走の御者を投獄したのがきっかけだった。競技の日を前に、御者を返せと迫った市民は暴徒となり、将軍を殺した。知らせを受けたテオドシウスは激怒し、報復を命じた。兵は競技場に集まった市民を囲み、無差別に殺した。死者は7000人にのぼったと、教会史家のテオドレトスは書いている。皇帝はのちに命令を取り消したが、使いが着いたときにはすべてが終わっていた、とも伝わる。

アンブロシウスは、皇帝の前に姿を見せず、ミラノを離れた。そして皇帝に宛てて、自筆の手紙を書いた。この手紙はいまも残っている。手紙は、あなたは罪を犯した、と静かに告げ、旧約の王ダビデが罪を指摘されて悔い改めた例を引いて、公に悔い改めるよう求めていた。それまでは、皇帝のいる場で聖餐を捧げることはできない、という。皇帝を破門すると宣言したのではないが、教会の交わりから外すという意味は明らかだった。
後の時代の教会史は、この場面をさらに劇的に描いた。テオドレトスによれば、アンブロシウスは聖堂に入ろうとする皇帝を入口で押しとどめ、罪に汚れた手で主の体を受けるつもりか、と叱りつけたという。この劇的な場面は、手紙の文面とは合わないところがあり、のちの脚色とみる研究者が多い。

テオドシウスは何か月も聖餐から遠ざかった。そしてその年のクリスマスのころ、皇帝の衣と飾りを外し、一般の悔悛者と同じ姿で聖堂に現れ、人々の前で罪を悔いた。その後、死刑や財産の没収の命令は、出してから30日をおいて執行する、という定めが作られたとも伝えられる。怒りに任せた命令で同じことを繰り返さないためだった。皇帝はアンブロシウスの赦しを受けて、教会に戻った。
この出来事のあと、テオドシウスは391年から翌年にかけて、異教の神々への犠牲と神殿での礼拝を禁じる法を次々に出した。アンブロシウスの影響がどこまで及んだのかは議論がある。395年、テオドシウスがミラノで死ぬと、葬儀の説教でアンブロシウスは、私はこの人を愛した、と語り、皇帝が罪を悔いたことを最大の美徳として讃えた。

皇帝が、自分の領土の一司教の求めに従い、公の場で罪を悔いた。それは、キリスト教徒である以上、皇帝も教会の裁きの下にある、という考えを、目に見える形で示した。その後、西方では皇帝の力が衰え、教会がその良心を裁くという話は、教皇権の主張の拠り所として繰り返し語られる。1077年、皇帝ハインリヒ4世が教皇に赦しを乞うたカノッサの屈辱は、その延長線上に置かれた。一方、帝国の東方では、皇帝が教会の上に立つという関係が長く続いた。テッサロニキの虐殺とミラノの悔悛は、東西の教会が別々の道を歩むことになる、その分かれ目の一つとしても読むことができる。