コルンバヌス
概要
レンスターの生まれ。バンゴール。50歳で「巡礼」。ブルグント。リュクスイユ。王の妾の子を祝福せず、追われた。ライン、ボーデン湖、アルプス、ボッビオ。『修道規則』『懺悔規定』。「私はヨーロッパ人」と教皇への手紙に書いた最初の人と言われる。
関わったできごと(1)
コルンバヌスのボッビオAD614年 · 建てた本文
コルンバヌスは、6世紀の末にアイルランドから大陸へ渡り、ガリアとイタリアに修道院を開いた修道士である。アイルランド語の名はコルム、「鳩」を意味する。生涯を伝えるのは、彼の死から二十数年後、ボッビオ修道院の修道士ヨナスが書いた伝記である。それによれば、生まれはアイルランド東部のレンスターで、543年頃とされるが、もう少し遅いとする説もある。

伝記には、聖人伝らしい話が並ぶ。母は身ごもったとき、胸から太陽が昇って世界を照らす夢を見た。若いコルンバヌスは見目がよく、娘たちに言い寄られて悩んだ。ある隠者の女に相談すると、ここを離れなさいと言われた。家を出る日、母は泣いて戸口に身を投げ出して引き止めたが、彼はその体をまたいで出ていったという。彼はまず北の湖の島で学び、次いでアイルランド北東のバンゴール修道院に入り、院長コムガルのもとで長く修行した。
アイルランドの修道士には、故郷を捨てて生涯異国をさすらうことを、キリストのための巡礼として尊ぶ考えがあった。少し前には、同じ名を持つコルンバがスコットランドの島に修道院を開いている(コルンバのアイオナ修道院)。590年頃、すでに中年を過ぎていたコルンバヌスは、12人の仲間とともに海を渡った。仲間の中には、のちにスイスのザンクト・ガレン修道院の名の起こりとなるガルスもいた。一行はブルターニュに上陸し、東のブルグントへ進んだ。

フランク人の王の許しを得て、コルンバヌスはヴォージュの山地に修道院を開いた。最初は廃れたローマの砦のあったアネグレ、次にリュクスイユ、さらにフォンテーヌである。とくにリュクスイユには多くの若者が集まり、フランク人の貴族の子弟も入った。彼が定めた修道規則は厳しかった。服従、沈黙、断食、清貧を求め、日々の小さな過ちにも鞭打ちの回数を定めた。祈りの最中に笑えば打たれ、食前の祈りを忘れれば打たれた。
コルンバヌスが大陸に持ち込んだものの一つに、懺悔の新しい形がある。アイルランドの修道院では、罪を一人の司祭にひそかに打ち明け、罪の重さに応じた償いを課される習わしがあった。彼の『懺悔規定』は、殺人、偽証、盗みなどの罪ごとに、何年の断食や追放で償うかを定めている。それまでの大陸の教会では、重い罪は人々の前で一生に一度だけ償うものだった。私的に何度でも告解できるこの形は、のちにカトリック教会全体に広まっていく。
彼は妥協を知らない人だった。アイルランドの教会は復活祭の日付を独自の計算で決めていて、ガリアの司教たちと食い違った。コルンバヌスは自分のやり方を改めず、教皇グレゴリウス1世にまで手紙を書いて、アイルランドの計算こそ正しいと論じた。ガリアの司教たちの会議に呼ばれたときも、出席はせず、手紙で自分たちを放っておいてほしいと求めた。
決定的な衝突は、ブルグントの王宮との間で起きた。若い王テウデリク2世は正式の妃を持たず、側室に子を産ませていた。実権を握る王の祖母ブルンヒルドが、その子らに祝福を与えるよう求めると、コルンバヌスは、彼らは娼婦の子で王位を継ぐべきではないと言って拒んだ。宮廷の食卓にも着かなかった。610年、彼はアイルランド人の仲間とともに国外へ追われた。ロワール川を下ってナントから船でアイルランドへ送り返されるはずだったが、船が嵐で岸に押し戻され、船長が彼らを降ろしたと伝記は書く。
コルンバヌスはそれから、ほかのフランク人の王たちの宮廷を回り、ライン川をさかのぼって、まだ異教の神々を拝んでいたアレマン人の地に入った。ボーデン湖のほとりのブレゲンツでしばらく布教したが、ここでも土地の人々と対立した。612年頃、彼はアルプスを越えてイタリアへ向かう。このとき、熱を出したガルスが同行を断り、コルンバヌスは仮病だと疑って罰を課したという。ガルスはそのまま残り、隠者として暮らした。
イタリアでは、北部を治めるランゴバルド人(ランゴバルドのイタリア侵入)の王アギルルフと、カトリックの王妃テオデリンダが彼を迎えた。614年頃、彼はアペニン山脈の谷あいのボッビオに土地を与えられ、最後の修道院を開いた(コルンバヌスのボッビオ)。ここで彼は、教会を二分していた神学上の論争について教皇ボニファティウス4世に長い手紙を書き、教皇に対して、眠らずに目を覚ませと遠慮なく求めた。この手紙の中で、彼は「全ヨーロッパの」という言い方で教会を呼んでいる。ヨーロッパという言葉を、地理の名ではなく、自分たちの属するまとまりとして使った早い例とされる。

コルンバヌスは615年11月23日にボッビオで死んだ。墓はいまもボッビオの修道院の聖堂の地下にある。リュクスイユで学んだ弟子たちは、7世紀のガリアに数十の修道院を開いた。ただ、彼の厳しい規則はしだいにベネディクトの戒律と混ぜて使われるようになり、9世紀のカロリング朝の改革でベネディクトの戒律に一本化されて、その役目を終えた。
それでも、修道院を拠点に信仰と学問を広める流れは、彼から大きく育った。彼の名を冠した修道院は、ボッビオの写本の宝庫のように、古代の書物を後の世に伝える場所になった。1950年、ヨーロッパ統合の案を出したばかりのフランスの外相ロベール・シューマンは、リュクスイユでの記念の集まりで、コルンバヌスをヨーロッパ全体の守護聖人にふさわしい人と称えた。国境を越えて歩き、一つの教会としてのヨーロッパを語った修道士は、こうして統合の時代の象徴にもなった。