できごと

ニケーア公会議

First Council of Nicaea
AD325年
重要度 5
ニケーア公会議に関わる図版:Μιχαήλ Δαμασκηνός - Α΄ Οικουμενική Σύνοδος 7741
Μιχαήλ Δαμασκηνός - Α΄ Οικουμενική Σύνοδος 7741 Wikimedia Commons C messier · Public domain

概要

皇帝が招集し、教義の統一が図られた。信仰の内容を国家が決める前例になる。

場所

ニカイア
40.43°N 29.72°E · トルコ・ブルサ県イズニク

関わった人(1)

コンスタンティヌス1世AD272年頃–337年5月22日 · 招集

本文

325年の初夏、小アジアの町ニカイア(いまのトルコのイズニク)に、帝国の各地からキリスト教の司教たちが集まった。後の伝承ではその数は318人とされるが、実際には250人から300人ほどだったとみられる。大半は帝国の東半分から来た司教で、西方からはわずかしか来ていない。ローマの司教は高齢を理由に、代わりに司祭2人を送った。

彼らを呼び集めたのは、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世である。コンスタンティヌスは312年、ミルウィウス橋の戦いの前にキリスト教の神のしるしを見たと伝えられ、翌年のミラノ勅令でキリスト教を公に認めた。324年には東の皇帝リキニウスを倒し、帝国を一人で治めるようになった。だが、ようやく手に入れた帝国の東半分で、キリスト教会は激しい論争で割れていた。

ミルウィウス橋の戦いに関わる図版:Battle of the Milvian Bridge by Giulio Romano, 1520-24
ミルウィウス橋の戦いWikimedia Commons Giulio Romano · Public domain

論争の火元は、エジプトのアレクサンドリアだった。この町の司祭アリウスは、神の子キリストは父なる神によって造られたもので、父と同じように永遠ではない、と説いた。子が存在しなかったときがあった、というのである。神が唯一であることを守るための考えだった。これに対して、アレクサンドリアの司教アレクサンドロスは、子は父と同じく永遠であり、本質において父と等しいと主張し、アリウスを破門した。アリウスには、東方の有力な司教たちが味方し、論争は帝国の東半分全体に広がった。町の市場でまで議論されていたと伝えられる。

コンスタンティヌスにとって、これは神学の問題である前に、統治の問題だった。皇帝はキリスト教を、帝国をまとめる力として期待していた。その教会が割れていては困る。皇帝は初め、二人に手紙を送って、つまらない言葉の争いはやめるようにと諭したが、収まらなかった。そこで、司教たちを一か所に集めて決着をつけさせることにした。旅費は国が持ち、司教たちは帝国の駅伝の馬車を使って旅をした。かつて迫害で拷問を受けた傷跡の残る司教も、その中にいた。

ハギア・ソフィアのキリスト・パントクラトルのモザイク
ハギア・ソフィアのキリスト・パントクラトルのモザイクWikimedia Commons Dianelos Georgoudis · Public domain

会議は皇帝の宮殿で開かれた。皇帝の伝記を書いたカイサリアの司教エウセビオスは、紫と金に輝く衣をまとった皇帝が広間に入ってきて、司教たちが立ち上がって迎えた様子を伝えている。皇帝は自ら開会の演説をし、教会の和合を訴えた。

議論の末、会議は信仰の内容を一つの文にまとめた。いわゆるニカイア信条である。そこでは、子は父と「同一本質」であり、造られたものではなく、父から生まれた、と定められた。この「同一本質」という言葉を入れるよう提案したのは皇帝自身だったとエウセビオスは書いている。聖書には無い哲学の言葉だったため、ためらう司教も多かった。だが最終的には、ほとんどの司教が署名した。署名を拒んだのは、アリウスとリビアの司教2人だけで、彼らは追放された。

トリエント公会議(NRコシャン画)
トリエント公会議(NRコシャン画)Wikimedia Commons Noël Robert Cochin · Public domain

会議では、ほかにも、復活祭をどの日に祝うかを統一することや、教会の規律についての20の規則が定められた。なお、この会議で聖書にどの書物を入れるかが決められた、という話が広く語られることがあるが、それは誤りである。この会議の記録に、そのような議題は無い。

どちらの考えが正しいかを、司教たちの多数と皇帝の権威で決めたことになる。信仰の内容を、国家の力を背景に一つに定め、従わない者を罰するという形が、ここで前例になった。以後の大きな公会議も、たいてい皇帝が招集した。

ニケーア公会議を描いたフレスコ画(ヴァチカン・シスト宮)
ニケーア公会議を描いたフレスコ画(ヴァチカン・シスト宮)Wikimedia Commons THE_COUNCIL_OF_NICEA_Fresco_in_the_Sistine_Salon_Vatican.jpg : Pvasiliadis · Public domain

だが、ニカイアで論争が終わったわけではなかった。数年のうちに、コンスタンティヌス自身がアリウスに近い司教たちの意見に傾き、アリウスを呼び戻した。ニカイアの決定を守ろうとしたアレクサンドリアの司教アタナシオスは、生涯に5度も追放された。337年、死の床にあったコンスタンティヌスに洗礼を授けたのは、アリウス派に近い司教だった(コンスタンティヌスの洗礼と死)。その後の皇帝たちもアリウス派を支持し、半世紀にわたって、どちらの派が皇帝の支持を得るかで、教会の主導権が入れ替わり続けた。

決着がついたのは381年、皇帝テオドシウスがコンスタンティノープルで開いた公会議である。ニカイアの信条が改めて確認され、聖霊についての言葉も加えられた。前年には、ニカイアの信仰を帝国の正しい信仰とする勅令が出されていた(キリスト教の国教化)。この信条は、いまも多くのキリスト教会の礼拝で唱えられている。

ガレリウスの頭像
コンスタンティヌス1世Wikimedia Commons Shinjirod · CC BY 3.0

一方、アリウス派のキリスト教は、帝国の外で生き延びた。ゴート人の司教ウルフィラは、アリウス派の立場から聖書をゴート語に訳し(ウルフィラのゴート語聖書)、ゴート人やヴァンダル人などゲルマン系の人々の多くがアリウス派として改宗した。彼らが5世紀にローマ帝国の西半分に王国を建てると、アリウス派の王とニカイア派の住民とのあいだで、宗派の違いが長く溝になった。西ゴートの王がカトリックに改宗したのは589年のことである(西ゴートのカトリック改宗)。ニカイアで定められた一つの言葉は、それほど長く、人々を分け続けた。

出典(1)

エドワード・ギボン 『ローマ帝国衰亡史』第21章

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