リンディスファーンの福音書

概要
ケルトの渦巻きとゲルマンの組紐とローマの文字が一つの写本になった。一人の修道士が数年かけて書き、その名が奥書に残っている。
場所
55.68°N -1.80°E · イギリス・イングランド
本文
イングランド北東の海岸に、潮が引くと歩いて渡れる小さな島がある。リンディスファーンという。635年、コルンバのアイオナ修道院の流れをくむアイルランド系の修道士アイダンが、ノーサンブリアの王に招かれてここに修道院を開いた。北の異教の王国にキリスト教を伝える拠点だった。
664年のウィットビー教会会議で、ノーサンブリアの教会はアイルランド式からローマ式の慣行へ切り替えた。リンディスファーンの修道院もその流れの中にあったが、アイルランドの修道院の伝統と、ローマから届く書物や習わしの両方が、この島で混ざり合っていた。

687年、島の司教だったカスバートが亡くなった。11年後に棺を開くと遺体が腐っていなかったとされ、聖人として崇められるようになる。島は巡礼の地になった。この福音書は、そのカスバートと神をたたえるために作られたと考えられている。年代は700年前後から720年ごろまで幅がある。
羊皮紙は259枚。子牛の皮にして150頭ほどが要ったと見積もられている。中身は、ラテン語の四つの福音書と、その前に置かれた序文や章の一覧になる。文字はローマから伝わった書体を島で洗練させたもので、一字一字が太く丸い。

四つの福音書と序文の冒頭に、装飾を敷き詰めた頁がある。十字架の形を中心に、細かな文様が頁の隅まで埋めている。東方の絨毯に似ているので「絨毯頁」と呼ばれる。そのあとに、福音書の最初の言葉を大きく飾った頁が続く。文字の内側や周りに、赤い小さな点が何千と打たれている。
文様には三つの流れが一つになっている。ケルトの渦巻きと螺旋、ゲルマンの金工に由来する、絡み合う獣と組紐、そして地中海から来た、人の姿を写す描き方。福音書記者の肖像は、イタリアから届いた写本の絵を手本にしたと考えられている。

渦巻きと組紐は、髪の毛ほどの細さの線で描かれ、少しの狂いもなく絡み合う。裏側に、鉛の芯のような道具で下描きをした跡が残っている。
顔料は、かつて青がアフガニスタン産のラピスラズリだと言われてきた。だが21世紀初めの分析で、青は植物から採った藍で、ほかの色もほとんどが身近な鉱物や植物から作られていたことが分かった。遠い国の高価な石ではなく、手に入る材料でこれだけのものを作っていた。

これだけの頁を一人で仕上げるには、司教としての務めの合間に、数年から十年ほどかかったと見積もられている。書き手は一人で、何人もの写字生が手分けしたものではない、というのが多くの研究者の見方になる。途中で手が止まったように、色が塗られずに残った箇所もある。
この写本は、一人の修道士が数年をかけて仕上げたと考えられている。10世紀の後半、アルドレッドという司祭が奥書を書き加えた。それによれば、書いたのはリンディスファーンの司教エアドフリス、製本したのはその後継の司教エゼルワルド、表紙を宝石で飾ったのは隠修士ビルフリスだという。書かれてから250年ほど後の記録だが、二人の司教はほかの記録からも実在が確かめられている。
793年、北の海からヴァイキングが島を襲った(ヴァイキングの襲来)。修道院はしばらく持ちこたえたが、875年、修道士たちはカスバートの遺体とこの福音書を携えて島を離れた。7年間各地をさまよったと伝わる。途中、海に落とした写本が無傷で浜に打ち上げられたという話も残るが、これは後世の聖人伝の語りになる。

一行はチェスター・ル・ストリートに落ち着き、そこでアルドレッドが、ラテン語の行間に一語ずつ古英語の訳を書き込んだ。現存する最古の英語訳の福音書になる。カスバートの遺体と写本は、のちにダラムの大聖堂へ移った。
16世紀、ヘンリー8世が修道院を解散させたとき、宝石の表紙は失われた。写本は人手を経て収集家の蔵書に入り、いまはロンドンの大英図書館にある。いまの装丁は19世紀に作られたものになる。同じ時代のノーサンブリアでは、ベーダがベーダ『イングランド教会史』を書いていた。辺境の島の修道院が、ヨーロッパでも指折りの書物と学問を生んでいた。

2013年には、写本が大英図書館からダラムへ貸し出されて展示され、北東イングランドの人々が数多く見に訪れた。この写本を地元に戻してほしいという声は、いまも北東イングランドに根強い。