コルンバヌスのボッビオ
概要
アイルランドの修道士が12人と大陸へ。リュクスイユ、ブレゲンツ、ボッビオ。王を叱り、教皇に手紙を書き、アイルランドの復活祭を守った。厳しい戒律。彼の弟子が100の修道院を作り、ボッビオは中世で最も本の多い図書館になった。『薔薇の名前』のモデルの一つとも言われる。
場所
44.77°N 9.39°E · イタリア
関わった人(1)
コルンバヌスAD543年–AD615年11月23日 · 建てた本文
6世紀のアイルランドは、ローマ帝国の支配を一度も受けたことのない島だった。5世紀にパトリキウスがキリスト教を広めて(パトリキウスのアイルランド布教)から、島には町の代わりに修道院が生まれ、修道院が学問と信仰の中心になった。アイルランドの修道士たちは、ラテン語の書物を写し、厳しい禁欲の暮らしを送った。その中から、故郷を捨ててキリストのために見知らぬ土地へ旅立つ「巡礼」を、最も重い修行と考える人々が現れた。563年ごろにスコットランドのアイオナに修道院を開いたコルンバ(コルンバのアイオナ修道院)もその一人である。
コルンバヌスは540年代の生まれとされ、北アイルランドのバンゴールの修道院で長く学んだ。590年ごろ、50歳前後になってから、12人の仲間とともに海を渡り、フランク人の国ガリアへ向かった。ブルグントの王に迎えられて、ヴォージュの山の中の、ローマ時代の砦や温泉の跡に、アヌグレイ、リュクスイユ、フォンテーヌの三つの修道院を開いた。とりわけリュクスイユには、フランク人の貴族の子弟が大勢集まった。

コルンバヌスの修道院は、厳しいことで知られた。沈黙と断食と従順を求め、規則を破った者には鞭打ちなどの罰を科した。彼が持ち込んだもう一つの習慣が、アイルランド風の告解である。それまで大陸の教会では、重い罪を犯した者が公に懺悔し、償いは一生に一度とされていた。アイルランドの修道士たちは、罪の種類ごとに償いの重さを定めた手引き(贖罪規定書)を使い、何度でも、司祭にひそかに罪を告白して償いを受けられるようにした。のちのヨーロッパの教会に広まる個人の告解の源の一つは、ここにあるとされる。
彼は、相手が誰であれ遠慮しなかった。アイルランドの教会は復活祭の日取りを独自の計算で決めており、ガリアの司教たちと食い違っていた。コルンバヌスはアイルランドの計算を守り、教皇グレゴリウス1世(グレゴリウス1世)に手紙を書いて、ローマの側の計算に疑問を突きつけた。ブルグントの若い王テウデリク2世と、実権を握る祖母ブルンヒルドとも衝突した。王の庶子たちを祝福するよう求められたコルンバヌスは、正式の妻の子でない者は王位を継ぐことはないとして拒んだと伝えられる。610年、彼は捕えられ、アイルランドへ送り返されることになった。だがナントから出た船は嵐で岸に押し戻され、それを神のしるしと受け取ったコルンバヌスは、東へ向かった。

彼はライン川をさかのぼり、ボーデン湖のほとりのブレゲンツでしばらく布教した。この地で、弟子のガルスが病のために一行と別れて残り、その庵の跡に、のちに大修道院ザンクト・ガレンが生まれる。612年ごろ、70歳近いコルンバヌスはアルプスを越えて北イタリアに入った。
北イタリアは、568年に侵入したランゴバルド人(ランゴバルドのイタリア侵入)の王国だった。王アギルルフは、キリストを神より下に置くアリウス派の信仰を持っていたが、妃テオデリンダはローマと同じカトリックの信徒だった。王夫妻はコルンバヌスを迎え入れ、アペニンの山中、トレッビア川の谷のボッビオに、古い教会のある土地を与えた。614年ごろ、コルンバヌスはここに修道院を開いた。彼はボッビオで、教皇ボニファティウス4世にあてて、北イタリアの教会を分裂させていた神学の論争をめぐる長い手紙を書いている。その中で彼は自分を、世界の西の果てに住むアイルランド人と名乗り、教皇を「全ヨーロッパ」の教会の頭と呼んだ。ヨーロッパという言葉を、一つのまとまりとして使った早い例の一つとされる。615年11月23日、コルンバヌスはボッビオで死んだ。

彼の死後、弟子たちとその弟子たちは、ガリアやイタリア、アルプスの北に、数十の修道院を開いていった。数については100を超えるとする伝えもあるが、どこまでを彼の流れに数えるかによって大きく変わる。7世紀の後半からは、多くの修道院が、より穏やかなベネディクトの戒律を受け入れていき、コルンバヌスの戒律は次第にその陰に隠れた。それでも、アイルランドの修道士たちが大陸に持ち込んだ学問と写本の伝統は、のちのカール大帝の時代の学問の復興の土台の一つになった。
ボッビオは、中世のイタリアで最も豊かな図書館の一つになった。9世紀から10世紀ごろの蔵書の目録には、600を超える書物が記されている。羊皮紙は高価だったため、修道士たちは、古い写本の文字を削り落とし、その上に新しい文書を書いた。こうした重ね書きの写本(パリンプセスト)の中に、失われたと思われていた古代の作品が眠っていた。1819年、ヴァチカン図書館の司書アンジェロ・マイは、ボッビオから来た写本の、アウグスティヌスの詩篇の注釈の下に、キケロの『国家について』の大部分が書かれているのを見つけた。

修道院の蔵書は、17世紀にはミラノのアンブロジアーナ図書館に一部が移され、のちにトリノやヴァチカンにも分かれた。修道院そのものは、1803年、ナポレオンの支配の下で廃止された。山あいの修道院と、その図書館に眠る古い書物という姿は、ウンベルト・エーコの小説『薔薇の名前』の舞台を思わせ、モデルの一つに数えられることもある。
ボッビオの町にはいまも、修道院の建物と、コルンバヌスの墓のある聖堂が残っている。アイルランドの西の果てから来た一人の修道士の旅は、ローマ帝国が崩れたあとのヨーロッパを、修道院と書物の網で結び直す動きの一つになった。