概要
ドミニコ会の異端審問官ハインリヒ・クラーマーが、インスブルックで魔女裁判に失敗して司教に追い出され、教皇の勅書を付けて、この本を書いた。魔女は実在する。悪魔と契約し、交わり、天候と作物と男の性器を害する。ほとんどが女である(「女は信仰が弱い(femina=fe minus)」)。訊問と拷問と処刑の手引き。印刷術で30版。魔女狩りは1560年から1630年が頂点で、4万〜6万人が処刑された。
場所
49.32°N 8.44°E · ドイツ
関わった人(1)
ハインリヒ・クラーマーAD1430年頃–AD1505年 · 書いた本文
中世の初め、教会は「魔女の夜の飛行」を信じることを、異教の迷信として禁じていた(『司教法令集』、906年頃)。13世紀、トマス・アクィナスが悪魔の実在と、悪魔との交わりを論じた。14世紀、異端審問が魔術を異端に含めた。15世紀、アルプスの谷(サヴォワ、ヴァレー、ドーフィネ)で最初の集団的な魔女裁判。「サバト」(夜の集会、悪魔への崇拝、赤ん坊を食べる)の観念が作られた。
ハインリヒ・クラーマー。ドミニコ会士、異端審問官。1484年、教皇インノケンティウス8世に勅書を出させた。「限りなき願いをもって」。「ドイツの北部で、多くの男女が、自分の救いを捨て、カトリックの信仰から離れ、男の悪魔と女の悪魔と交わり、呪文と魔法で、女の出産と家畜の子を消し、作物と果実を枯らし……」。審問官に全権を与える。
1485年、インスブルック。クラーマーは50人ほどの女を訴えた。訊問は、悪魔との性交の詳細を、公開で、執拗に聞くものだった。ブリクセンの司教ゲオルク・ゴルザーが裁判を無効にして、女たちを釈放し、彼を教区から追い出した。「この審問官は、老いのために、完全に子供のようになったと思われる」。
1486年、追放された怒りの中で書いた。1487年、シュパイアーで印刷。『魔女に与える鉄槌』。
共著者としてケルンのヤーコプ・シュプレンガー(大学の神学教授、ドイツ管区長)の名が印刷されている。シュプレンガーは1487年にクラーマーの説教を自分の管区で禁じ、会の規律に訴えた。二人は敵対していた。ほぼ確実に、クラーマー一人の作。ケルン大学の「認可」の文書も、教授の署名は4人で、内容は「理論は正しいが手続きの一部は法に合わない」と留保している。残りは捏造と考えられる。1490年、ドミニコ会は本を「非合法な手続きを含む」として非難した。
3部。第1部。魔女は存在するか。存在しないと言うのは異端。悪魔は神の許しの下で魔女を通して働く。魔女は悪魔と契約し、交わる。なぜ女が多いのか。女は信仰が弱く(femina は fe(信仰)minus(少ない)から、という偽の語源)、好奇心が強く、嘘つきで、復讐心が強く、「全ての魔術は肉欲から来る。女においてそれは飽くことがない」。第2部。魔女は何をするか。嵐、雹、家畜の病、乳を止める、男の性器を消す、赤ん坊を殺して軟膏にする、空を飛ぶ。第3部。裁判。訴えの受理、証人(誰でもよい。魔女の証言も)、弁護の制限、訊問(泣かない者は魔女——魔女は泣けない。体の毛を剃る)、拷問(自白は拷問の外で繰り返させる。「自白しなければ、翌日に続ける」)、そして火。
印刷術。1487〜1520年に13版、1574〜1669年に16版。約3万部。それ以前の魔女の本は写本だった。法学者と裁判官の机に、印刷された手引きが置かれた。ボダン『魔女の悪魔狂』(1580年)、デル・リオ『魔術研究』(1599年)が続いた。
魔女狩り。1430年頃から1780年頃。頂点は1560〜1630年。神聖ローマ帝国(トリーア、ヴュルツブルク、バンベルク、ケルン。ドイツが半分)、スイス、フランス、スコットランド、スウェーデン、そしてセイラム(1692年)。裁判は約11万件、処刑は約4万〜6万人(かつて言われた「900万人」は18世紀の計算の誤り)。75〜80%が女。多くは世俗の裁判所で裁かれた(スペインとイタリアの異端審問所は、むしろ慎重で、魔女をほとんど焼かなかった)。
なぜ。宗教改革と対抗宗教改革(両方が焼いた)、小氷期の凶作、疫病、戦争、村の中の憎しみ、拷問による連鎖(自白で仲間の名を言わされる)、そして本。フリードリヒ・シュペー『犯罪の警告』(1631年。イエズス会士で、告解を聞いて彼女たちが無実だと知った。「拷問すれば、誰でも魔女になる」)。1682年、フランスで魔女罪が廃止。1736年、イギリス。1782年、スイスのグラールスで、ヨーロッパ最後の処刑(アンナ・ゲルディ。2008年に名誉回復)。