ツヴィングリのチューリヒ改革
概要
ルターと同じ頃、別に始まった。市の説教師が聖書に無いものを退け、市参事会が公開討論で決め、教会から像とオルガンと祭壇を出した。ルターとは聖餐で合わず、カトリックの州との戦いで戦死した。
場所
47.38°N 8.54°E · スイス
関わった人(1)
フルドリッヒ・ツヴィングリAD1484年1月1日–AD1531年10月11日 · 説教師本文
1519年1月1日、35歳の誕生日に、フルドリッヒ・ツヴィングリはチューリヒのグロスミュンスターで民衆司祭(ロイトプリースター)の職に就いた。最初の説教で彼は、教会の暦が定める朗読箇所を読むのをやめ、マタイ福音書を一章目から順に講じていくと告げた。連続講解と呼ばれるこのやり方が、チューリヒの改革の出発点になった。聖書をつまみ食いせず、まるごと会衆の前に開く。何が書いてあり、何が書いていないかが、誰の目にも見えるようになる。
ツヴィングリはスイス東部の山村の農家に生まれ、ウィーンとバーゼルで学んだ人文主義者だった。エラスムスを深く敬い、ギリシア語の新約聖書を読み込んだ。グラールスとアインジーデルンで司祭を務め、スイス傭兵の従軍司祭としてイタリアの戦場にも出ている。若者が金で外国の戦争に売られていく傭兵の稼業への嫌悪は、彼の改革のもう一つの根になった。
着任の年の夏、チューリヒをペストが襲い、住民の多くが死んだ。ツヴィングリも病み、死の淵から戻った。このとき作った「ペストの歌」には、生かすも殺すも神の意志に委ねるという祈りが綴られている。同じ頃、ドイツでは95か条の論題が波紋を広げていた。ツヴィングリはマルティン・ルターの書物を読んだが、自分はルターから学んだのではなく、聖書を読んで同じところへ来たのだと後に繰り返し語っている。

改革が目に見える形で動いたのは1522年の四旬節だった。3月、印刷業者フローシャウアーの家で、職人たちが肉を断つべき期間にソーセージを食べた。ツヴィングリはその場にいたが、自分は食べなかった。そのうえで説教し、断食の決まりは聖書に根拠がなく、食べても罪ではないと論じた。説教は「食物の選択と自由について」として印刷された。同じ年の夏、彼はほかの司祭たちとともにコンスタンツ司教へ、司祭の結婚を認めるよう求める請願を出している。彼自身はこの頃すでに寡婦アンナ・ラインハルトとひそかに結婚しており、1524年にそれを公にした。
決定的だったのは、誰が正しさを決めるのかという問いだった。1523年1月29日、チューリヒの市参事会は市庁舎で公開の討論会を開いた。集まったのはおよそ600人。ツヴィングリは信仰の基準を聖書だけに置く67か条を掲げた。コンスタンツ司教の代理として来たヨハン・ファーバーは、こうした問題は公会議が決めることで、ここで裁く場ではないと主張した。ツヴィングリは、ではこの67か条に聖書から反論できるかと迫った。討論のあと、市参事会はツヴィングリに聖書に従って説教を続けよと命じた。教義の争いに判定を下したのは、司教でも公会議でもなく、都市の世俗の政府だった。これがチューリヒの改革のいちばん大きな特徴になる。

同じ年の10月の第二回討論では、聖画像とミサが議題になった。1524年6月、市内の教会から像と絵が運び出された。暴徒が打ち壊したのではなく、市当局の決定に従い、職人が戸を閉めた中で秩序立てて作業し、壁は白く塗り直された。グロスミュンスターのオルガンも、のちに取り外された。皮肉なことに、ツヴィングリは同時代でも指折りの音楽好きで、多くの楽器を弾きこなしたと伝えられる。それでも彼は、礼拝の中の音楽は神から心をそらすものだと考えた。
1525年の聖週間、チューリヒでミサが廃止された。代わりに置かれたのは、木の皿のパンと木の杯を会衆の間に回す簡素な聖餐で、年に数回だけ行うものとされた。祭壇は取り払われた。同じ頃、市は修道院の財産を貧民の救済と学校に回し、聖書を原語から講じる学塾を開いた。そこでの共同の翻訳作業が、のちのチューリヒ聖書につながる。
改革は、内側からも割れた。ツヴィングリのもとで学んだコンラート・グレーベルやフェリックス・マンツらは、聖書に幼児洗礼は書かれていないと言い、1525年1月に大人どうしで洗礼を授け合った。再洗礼派である。ツヴィングリと市参事会にとって、町に生まれた者が皆洗礼を受けて教会と市の一員になることは、共同体の土台だった。それを否定する者は、都市の秩序そのものを壊しているように見えた。1527年1月5日、マンツは町を流れるリマト川に沈められて処刑された。プロテスタントの町が、別のプロテスタントを死刑にした最初の例とされる。再洗礼派はその後も各地で迫害され、やがてミュンスターの再洗礼派のような激発も生んだ。

外では、ルターとの溝が深まった。1529年10月、ヘッセン方伯フィリップは両派の同盟を望み、マールブルクの城に両者を招いた。15の論点のうち14で一致したが、最後の一つ、聖餐のパンが何であるかで決裂した。ルターは「これは私の体である」というイエスの言葉を文字どおりに受け取り、パンの中にキリストの体が本当にあると主張した。ツヴィングリは、「である」は「表している」の意味で、聖餐はキリストの死を記念する行いだと考えた。ルターが机にチョークでその言葉を書きつけて譲らなかった、という話が伝わっている。プロテスタントは一つの陣営にまとまれなかった。
スイスの中でも、改革を受け入れた都市とカトリックにとどまる中央部の5州との対立は武力に向かった。1529年にいったん和が結ばれたが、チューリヒが5州への食糧の封鎖をかけたことで、1531年に再び戦争になった。10月11日、カッペルで両軍がぶつかった。5州の軍はおよそ7000から8000、チューリヒ側は準備が遅れて3500ほどしか揃わなかったとされる。ツヴィングリは従軍牧師として兜と剣を帯びて戦場に出ており、そこで倒れた。47歳だった。遺体は異端者として四つ裂きにされ、焼かれたと伝えられる。ルターはその死を、剣を取った者が剣で死んだと冷たく評した。

チューリヒの改革は、指導者の死で終わらなかった。後を継いだハインリヒ・ブリンガーは40年以上にわたって教会を率い、その著作と書簡は西ヨーロッパ各地の改革派に読まれた。1549年、ブリンガーはジュネーヴのジャン・カルヴァンと聖餐についての合意(チューリヒ一致)を結び、ツヴィングリの流れとカルヴァンのジュネーヴの流れは合わさって「改革派」と呼ばれる教会になった。ルター派とは別の、もう一つのプロテスタントの系譜である。スコットランドの長老派、オランダの改革派、海を渡ったピューリタンの教会は、どれもこの系譜に連なる。