人物

トマス・ベケット

Thomas Becket
AD1119年頃 – AD1170年12月29日(享年51・推定)
イングランド王国重要度 4

概要

ロンドンの商人の子で、王の大法官として親友だった。大司教にされると教会の側に立ち、王と争い、6年フランスに逃げ、帰って4週間後に大聖堂で殺された。3年で聖人になり、墓は宗教改革まで巡礼の目的地だった。

関わったできごと(1)

トマス・ベケットの殺害AD1170年12月29日 · 殺された大司教

本文

1120年頃、ロンドンの目抜き通りチープサイドに生まれた。父のギルバートはノルマンディーから移ってきた商人で、ロンドンの町の要職も務めた。イングランドは1066年にノルマンディー公に征服されて以来、フランス語を話すノルマン人が支配する国になっていた。トマスはその支配層の言葉と文化の中で育ったが、貴族ではなく町人の子だった。パリで学んだのち、父の商売が傾き、しばらくロンドンで書記として働いた。

アーブロース修道院長の印章に描かれたベケット暗殺の場面。聖トマスの死後8年に創建された同修道院は彼に献げられ、スコットランド最富裕の修道院となった
アーブロース修道院長の印章に描かれたベケット暗殺の場面。聖トマスの死後8年に創建された同修道院は彼に献げられ、スコットランド最富裕の修道院となったWikimedia Commons seal is medieval · Public domain

20代半ば、カンタベリー大司教テオバルドの家中に入った。大司教のもとには有能な若い聖職者が集まっていて、トマスはそこで頭角を現し、イタリアのボローニャなどで教会法も学んだ。1154年、カンタベリーの大助祭に任じられた。同じ年、21歳のヘンリー2世がイングランド王に即位した。ヘンリーは母方からイングランド王位を、父方からアンジューを受け継ぎ、妻のエレノア・オブ・アキテーヌが持参した南西フランスの広大な領地まで支配する、ヨーロッパで最も広い領地を持つ君主だった。

1155年、テオバルドの推薦で、トマスは王の大法官になった。王の文書を扱い、行政と財政を取り仕切る最高の役職である。トマスは王より10歳以上年上だったが、二人はすぐに親友になった。一緒に狩りをし、遊び、王はしばしば大法官の屋敷で食事をした。トマスは贅沢を好み、豪華な食卓と多くの家臣を抱えた。1158年、王の使節としてパリへ行ったときには、何百人もの従者と、荷を積んだ馬車の長い列を連ねた。それを見たフランスの人々が、大法官でこれなら、イングランド王はどれほどの人なのか、と驚いたと、トマスに仕えた者の伝記は書いている。1159年の南フランスのトゥールーズへの遠征では、自分で雇った騎士700人を率いて戦った。

ベケットの暗殺と葬儀を描いた1190〜1200年頃のフランス製七宝聖骨箱(現存約52例の一つ)
ベケットの暗殺と葬儀を描いた1190〜1200年頃のフランス製七宝聖骨箱(現存約52例の一つ)Wikimedia Commons Master Alpais · Public domain

1161年にテオバルドが亡くなると、ヘンリーは翌1162年、トマスをカンタベリー大司教に据えた。イングランドの教会の頂点である。王は、親友を大司教にすれば、教会を王の意のままに動かせると考えていた。トマスはそれまで司祭ですらなく、任命の前日に司祭に叙階されている。ところが大司教になったトマスは、人が変わったようになった。王の求めに反して大法官の職を辞め、豪華な暮らしを捨てて、衣の下に粗い毛の肌着をつけ、祈りと断食にふけり、毎日貧しい人々の足を洗った。そして、教会の権利を守る側に立った。

争いの中心は、罪を犯した聖職者を誰が裁くかだった。聖職者は教会の裁判所で裁かれ、そこでは死刑や体を傷つける刑は科されなかった。殺人を犯した聖職者が軽い罰で済むことに、王は我慢がならなかった。1164年1月、王はクラレンドンに諸侯と司教を集め、王の祖父の時代からの慣習だとして、教会に対する王の権利を書き出した。罪を犯した聖職者は、教会の裁判のあと王の裁判所に引き渡される、ローマの教皇への訴えには王の許しが要る、といった内容である。トマスはいったん口頭で受け入れたが、まもなくそれを悔いて撤回した。

カンタベリー大聖堂、トマス・ベケットの殉教の地を示す彫刻と祭壇(ジャイルズ・ブロムフィールド作)。騎士たちの4本の剣を表す
カンタベリー大聖堂、トマス・ベケットの殉教の地を示す彫刻と祭壇(ジャイルズ・ブロムフィールド作)。騎士たちの4本の剣を表すWikimedia Commons Andy Li · CC0

王は激しく怒った。同じ年の10月、ノーサンプトンの会議で、王は大法官時代の金の使い方を問題にしてトマスを責め、有罪を宣告させようとした。トマスは十字架を手にして判決を拒み、その夜のうちに変装して逃げ出し、海を渡ってフランスへ逃れた。フランス王ルイ7世が彼を保護した。トマスはその後6年、ブルゴーニュのポンティニーの修道院や、サンスで亡命生活を送った。ローマの教皇アレクサンデル3世は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)と争っていて、イングランド王を敵に回す余裕はなく、両者の間で揺れた。

1170年6月、ヘンリーは跡継ぎの息子を王として戴冠させた。戴冠はカンタベリー大司教の権利だったが、王はヨーク大司教に執り行わせた。教皇の圧力もあって、7月、王とトマスはフランスで和解した。12月1日、トマスはイングランドに戻った。カンタベリーまでの道では群衆が彼を迎えた。だがトマスは帰国の直前、戴冠に加わった司教たちを停職と破門の処分にしていた。

ベケット暗殺に関わった騎士たちを描いた象牙彫刻(1200年頃)。一人の騎士が大聖堂の扉を破るための斧を持つ
ベケット暗殺に関わった騎士たちを描いた象牙彫刻(1200年頃)。一人の騎士が大聖堂の扉を破るための斧を持つWikimedia Commons Public domain

処分された司教たちから知らせを受けた王は、ノルマンディーで怒りを爆発させ、自分の家臣たちは身分の低い聖職者一人に王が侮辱されるのを放っておくのか、という意味のことを叫んだと伝えられる。言葉は伝える史料によって違う。それを聞いた4人の騎士が、王の命令を受けないまま海を渡った。1170年12月29日の夕方、騎士たちはカンタベリー大聖堂に押し入った。修道士たちは扉に鍵をかけようとしたが、トマスは、教会を砦にしてはならない、と言って開けさせた。騎士たちは司教たちの破門を解くよう迫り、トマスが拒むと、祭壇の近くで剣を振り下ろした。そばにいた修道士エドワード・グリムは、かばおうとして腕を斬られた。グリムの記録によれば、トマスは、イエスの名と教会を守るためなら死を受け入れる、と言って倒れた。頭蓋の上部を斬り落とされていた。

大司教が大聖堂で殺されたという知らせは、ヨーロッパ中に衝撃を与えた。まもなく墓で奇跡が起きると言われはじめ、1173年、教皇はトマスを聖人に列した。死後わずか2年あまりである。1174年、ヘンリー2世はカンタベリーに来て、粗末な身なりで大聖堂まで歩き、墓の前で修道士たちに鞭で打たれて罪を償った。クラレンドンで王が求めた権利の一部は、こうして取り下げられた。

カンタベリー大聖堂、聖トマス・ベケットの生涯を描いた1215年頃のステンドグラス『奇跡の窓』
カンタベリー大聖堂、聖トマス・ベケットの生涯を描いた1215年頃のステンドグラス『奇跡の窓』Wikimedia Commons Jules & Jenny from Lincoln, UK · CC BY 2.0

カンタベリーの聖トマスの墓は、ヨーロッパでも指折りの巡礼地になった。14世紀にチョーサーが書いた『カンタベリー物語』(『カンタベリー物語』)は、ロンドンからこの墓へ向かう巡礼たちが、旅の途中で順に物語を語るという形をとっている。1538年、ローマ教会と縁を切ったヘンリー8世は、トマスを王に逆らった者として、黄金と宝石で飾られた墓を壊させ、その名を祈りの暦から消させた。それでも、王の権力に対して信仰と教会の権利を貫いた大司教の記憶は残った。1935年にはイギリスの詩人エリオットが、彼の死を劇『寺院の殺人』に書いている。王と教会のどちらが上かという争いは、イングランドではヘンリー8世の時代まで続くことになる。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1119年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →