グレゴリウス1世
概要
ローマの市長官から修道士になり、疫病の年に教皇に選ばれた。ランゴバルドと自分で交渉し、教会の領地で飢えたローマを養い、イングランドに宣教師を送った。「神の僕たちの僕」と自分を呼んだ最初の教皇。聖歌にその名がついた。
関わったできごと(2)
グレゴリウス1世の即位AD590年 · 教皇アウグスティヌスのケント布教AD597年 · 送った教皇本文
グレゴリウス1世は、540年頃、ローマの元老院議員の家に生まれた。教皇フェリクス3世は高祖父にあたる。父ゴルディアヌスはローマの行政に携わる役人で、一家はカエリウスの丘に屋敷を持っていた。グレゴリウスが育った頃、イタリアは東ローマ帝国(ビザンツ)とゴート人の長い戦争で荒れ果て、568年からはランゴバルド人が北から侵入してきた(ランゴバルドのイタリア侵入)。

30代の前半、573年頃、彼はローマの市長官に任じられた。都の最高の行政官である。しかし父の死後まもなく官職を捨て、カエリウスの丘の屋敷を聖アンデレの修道院に改め、自らそこで修道士になった。シチリアにあった一族の領地にも6つの修道院を建てた。修道院での静かな祈りと学びの日々を、彼は生涯なつかしんだ。
579年頃、教皇ペラギウス2世は彼をコンスタンティノープルの皇帝の宮廷に送り、教皇の代理を務めさせた。6年ほどの滞在中、グレゴリウスはランゴバルドに対する軍事的な援助を求めたが、帝国にその余力はなかった。ギリシア語はあまり身につかなかったと自分で書いている。

8世紀のイングランドの学者ベーダは、ローマに戻った頃のグレゴリウスについて有名な話を伝える。市場で売られていた色白の少年たちを見て、どこの者かと尋ね、アングル人だと聞くと、アングル人ではなく天使(アンジェリ)のようだと言い、その地に福音を伝えたいと願った、という。
590年、テヴェレ川が氾濫し、続いて疫病がローマを襲い、教皇ペラギウス2世も倒れた。人々はグレゴリウスを次の教皇に選んだ。皇帝の承認を待つあいだ、彼は市民を7つの組に分け、町の各所から聖母の教会へ向かう祈りの行列を組織した。のちの伝説では、そのときハドリアヌス帝の霊廟の上に、剣を鞘に収める大天使ミカエルが現れ、疫病の終わりを告げたという。霊廟がサンタンジェロ城(聖天使の城)と呼ばれるようになった由来とされる(グレゴリウス1世の即位)。

教皇となったグレゴリウスは、自らを「神の僕たちの僕」と呼んだ。この呼び方はその後の教皇の称号として受け継がれた。コンスタンティノープルの総主教が「全地の総主教」を名乗ったときには、その称号を傲慢だとして強く抗議した。
当時のローマには、皇帝の軍も行政もほとんど機能していなかった。皇帝の総督はラヴェンナにいて、ランゴバルドの攻勢からローマを守れなかった。593年、ランゴバルドの王がローマを囲むと、グレゴリウスは自ら交渉し、教会の金を払って退かせた。シチリアや南イタリア、北アフリカ、ガリアに広がる教会の領地の管理を立て直し、そこから穀物を運ばせて、飢えたローマの人々に配った。蛮族の剣のもとで、自分は教会の牧者というより町の役人のようだと、彼は手紙で嘆いている。教会がローマとその周辺を治める教皇領の始まりは、ここに求められる。

彼は外へも目を向けた。596年、聖アンデレ修道院の院長アウグスティヌスら約40人の修道士をブリテン島に送り出した。一行は597年にケントに上陸し、王エゼルベルトを改宗させた(アウグスティヌスのケント布教)。イングランドのキリスト教の新しい始まりである。スペインでは西ゴート王レカレドがアリウス派からカトリックに改めたこと(西ゴートのカトリック改宗)を祝い、ランゴバルドの王妃テオデリンダとは手紙を交わして、王子をカトリックとして育てさせた。
グレゴリウスは多くの著作を残した。司教の心得を説いた『司牧規則』は、のちにアルフレッド大王が自ら古英語に訳し、中世を通じて読まれた。『対話』の第2巻は、ヌルシアのベネディクトゥスの生涯を伝えるほとんど唯一の史料である。『ヨブ記』の長大な注解や、800通を超える書簡も残る。

晩年の彼は痛風などに苦しみ、寝台の上で口述して仕事を続けた。604年3月12日に死に、サン・ピエトロ大聖堂に葬られた。のちにアンブロシウス、ヒエロニムス、アウグスティヌスと並ぶラテン教会の四大教父の一人に数えられ、「大教皇」と呼ばれた。ローマ教会の聖歌が「グレゴリオ聖歌」と呼ばれるのは、のちの時代に彼の名を冠したもので(グレゴリオ聖歌の成立)、本人がどこまで聖歌の整理に関わったかは分かっていない。