デイヴィッド・リヴィングストン
概要
スコットランドの紡績工場の子。10歳から働き、夜学で医学。宣教師として南アフリカへ。改宗させたのは一人。カラハリを越え、ザンベジを下り、ヴィクトリアの滝に名をつけた。「奴隷貿易を止めるには商業と文明を」。ナイルの源を探して、ザンビアの村で跪いて死んだ。心臓は木の下に、体はウェストミンスターに。
関わったできごと(1)
スタンリー、リヴィングストンに会うAD1871年11月10日 · 見つかった本文
デイヴィッド・リヴィングストンは、1813年3月19日、スコットランドのグラスゴーに近いブランタイアに生まれた。一家は綿紡績工場の社宅の一部屋に暮らしていた。10歳で工場に入り、朝6時から夜8時まで糸継ぎをした。最初の給金で買ったのはラテン語の文法書で、紡績機の台に本を立てかけ、機械の合間に読んだと本人が回想している。仕事が終わると夜学に通った。
信仰の篤い家だった。若いリヴィングストンは、医学の知識を持った宣教師になると決め、働いて学費をため、グラスゴーで医学と化学を学んだ。ロンドン宣教師協会に入り、はじめは中国へ行くつもりでいた。だがアヘン戦争で道が閉ざされた。そのころロンドンで、南アフリカから一時帰国していた宣教師ロバート・モファットの話を聞いた。朝日の中で、宣教師がまだ一人も行ったことのない千の村から煙が上がるのを見た、とモファットは語った。リヴィングストンはアフリカへ行くことにした。

1841年、ケープ植民地を経て、内陸のクルマンの伝道所に着いた。1844年、マボツァでライオンに襲われ、左腕を噛み砕かれた。骨はまっすぐにつながらず、生涯、左腕を肩より上に上げられなかった。のちに遺体が本人と確かめられたのは、この古傷による。1845年、モファットの娘メアリーと結婚した。
宣教師としての成果は乏しかった。クウェナ人の首長セチェレは聖書を熱心に読み、洗礼を受けた。だがキリスト教の教えに従って妻を一人に減らしたあと、離縁した妻の一人と関係を戻し、教会から離れた。リヴィングストンが生涯で改宗させたと確かに言えるのは、このセチェレ一人だったとされる。彼は次第に、一つの村にとどまって説くより、奥地へ道を開くほうが自分の仕事だと考えるようになった。

1849年、カラハリ砂漠を越えてンガミ湖に達した。1851年にはザンベジ川の上流を見た。1852年、妻と子供たちをイギリスへ帰し、一人で北へ向かった。1853年から1856年にかけて、マコロロ人の従者とともに、リニャンティから大西洋岸のルアンダへ出て、引き返し、ザンベジ川を下ってインド洋岸のキリマネに着いた。ヨーロッパ人として初めて、記録に残る形で南部アフリカを横断した旅だった。1855年11月、土地の人が「モシ・オア・トゥニャ(轟く煙)」と呼ぶ滝を見て、ヴィクトリア女王の名を与えた。
旅のあいだ、彼は奴隷狩りの跡を何度も見た。そして、奴隷貿易を止めるには、説教だけでなく、まっとうな商業でアフリカの人々が豊かになる道を開くことだと考えた。「キリスト教と商業と文明」という言葉は、この考えを要約している。

1856年末に帰国すると、彼は国民的な英雄になっていた。翌年の『南アフリカにおける宣教旅行と調査』は7万部売れたとされる。ケンブリッジ大学での講演では、自分はアフリカに戻って道を開くつもりだ、その仕事を続けてほしい、と学生に呼びかけた。彼はロンドン宣教師協会を離れ、政府の領事の肩書きでザンベジ探検隊を率いることになった。
1858年からのザンベジ探検は、ほとんどが失敗だった。ザンベジ川を蒸気船で遡れば内陸への道になる、という彼の見込みは、カブラバサの急流で崩れた。シレ川を遡ってニヤサ湖(いまのマラウイ湖)に達したことは成果だったが、隊員とのいさかいが続き、同行した宣教団からも死者が出た。1862年4月、後から来たメアリーがザンベジ河畔で熱病で死んだ。政府は1863年に探検隊を呼び戻した。

1866年、彼はザンジバルから最後の旅に出た。目的はナイル川の源を突き止めることだった。彼はタンガニーカ湖の西を流れるルアラバ川がナイルの上流だと考えたが、実際にはコンゴ川の上流だった。従者の多くが逃げ、薬を盗まれ、病に倒れた。1871年7月15日、ルアラバ川のほとりの町ニャングウェで、市場に集まった人々にアラブ系とスワヒリ系の奴隷商人の一団が発砲し、数百人が撃たれたり川で溺れたりするのを目の前で見た。死者の数は記録によって違う。彼の書き残したこの場面の報告は、イギリスの世論を大きく動かした。1873年、イギリスの圧力でザンジバルのスルタンが奴隷の海上取引を禁じ、奴隷市場は閉じられた(ザンジバルの丁子と奴隷市場)。この流れに彼の報告が力になったとされる。
1871年11月、タンガニーカ湖畔のウジジで、行方を探しに来た新聞記者ヘンリー・モートン・スタンリーに会った(スタンリー、リヴィングストンに会う)。スタンリーは帰国を勧めたが、リヴィングストンは断った。物資を受け取り、再び南へ向かった。

1873年5月1日の早朝、いまのザンビアのバングウェウル湖に近いチタンボの村で、寝床のそばに跪いたまま死んでいるのを従者が見つけた。59歳だった。従者のスシとチュマらは、心臓と内臓を村の木の根元に埋め、体を乾かして布で包み、樹皮の筒に納めて運んだ。およそ9か月をかけ、1500キロを超える道のりを歩いて、インド洋岸のバガモヨへ届けたとされる。1874年4月18日、遺体はウェストミンスター寺院に葬られた。棺を担いだ一人はスタンリーだった。
彼は宣教師としても、ナイルの源を探す探検家としても、目指したものを果たせなかった。それでも、彼の旅と報告は、ヨーロッパがアフリカの内陸に向ける目を変えた。その目はやがて、奴隷貿易の禁止を後押ししただけでなく、彼の死から十数年後のアフリカ分割にもつながっていく。彼が望んだ「商業と文明」は、植民地支配の看板にも使われた。

それでも、アフリカの人々は彼の名を消さなかった。独立後のザンビアは、町の名リヴィングストンをそのまま残した。マラウイの商業都市ブランタイアは、彼の生まれた村の名を取っている。滝はいま、ヴィクトリアの滝とモシ・オア・トゥニャの両方の名で呼ばれている。