教皇のアヴィニョン捕囚
概要
教皇庁がフランス王の影響下に移った。教会の権威が世俗の力に押される。
場所
43.95°N 4.81°E · フランス
本文
始まりは、聖職者に税をかけてよいかという争いだった。フランス王フィリップ4世(美男王)は、イングランドとの戦費をまかなうため、国内の教会にも課税しようとした。教皇ボニファティウス8世はこれを拒み、1302年の勅書で「すべての人間は救いのためにローマ教皇に服さねばならない」と宣言した。教皇権の主張としては、これが頂点になる。
王の側は言葉ではなく力で応じた。1303年、王の側近ノガレが兵を率いて、教皇の故郷アナーニの館を襲った(アナーニ事件)。教皇は数日のうちに町の人々に救い出されたが、ひと月あまり後にローマで死んでいる。次の教皇は1年足らずで死に、その後を継いだのが、ボルドー大司教だったフランス人のクレメンス5世である。

クレメンス5世はリヨンで戴冠し、ローマへは向かわなかった。ローマは貴族の党派争いで荒れていて、教皇が安全に住める町ではなかった。各地を移った末、1309年に南フランスのアヴィニョンに落ち着く。アヴィニョンは当時ナポリ王家(プロヴァンス伯)の町で、周囲には教皇領があった。教皇庁は1348年にこの町を買い取っている。
フランス王の影が最もはっきり出たのが、テンプル騎士団の件だった。フィリップ4世は1307年、騎士団員を一斉に逮捕し、異端の罪をかぶせた。財産が目当てだったとされる。教皇は抵抗しきれず、1312年のヴィエンヌ公会議で騎士団の廃止を決めた。

アヴィニョンの教皇は7代続き、全員がフランス人だった。新しく任命される枢機卿も多くがフランス人になった。一方で、教皇庁は組織としてはこの時期に大きく整う。聖職の任命権を教皇の手に集め、任命のたびに初年度の収入を納めさせる仕組みを広げた。巨大な教皇宮殿が建ち、町は各国の使節と商人と請願者であふれた。
なかでもヨハネス22世は、教皇庁の財政を作り上げた人として知られる。同時に彼は、キリストと使徒は財産を持たなかったと説くフランシスコ会の一派と激しく争い、その主張を異端と断じた。追われた修道士たちは、教皇と対立していた皇帝ルートヴィヒ4世のもとへ逃れた。哲学者オッカムもその一人である。パドヴァのマルシリウスは『平和の擁護者』を書き、教会は世俗の権力に従うべきだとまで論じた。教皇の権威を理屈の上から崩す議論が、この時代にまとまって出てくる。
その豪奢と金への執着が、批判の的になった。詩人ペトラルカはアヴィニョンを「西のバビロン」と呼び、旧約聖書でユダヤの民がバビロンに連れ去られた故事になぞらえた。「バビロン捕囚」という呼び名はここから来ている。1348年には黒死病が町を襲い、教皇の侍医が詳しい記録を残した。
1337年に百年戦争が始まると、教皇がフランスの町にいることは、イングランドから見れば敵の側にいることを意味した。イングランド議会は14世紀半ば、教皇が国内の聖職を任命することや、国内の訴えをアヴィニョンへ持ち込むことを制限する法を相次いで定めた。教皇庁が整えた集金の仕組みは、各国の王にとって、国の金が国外へ流れ出す管のように見えた。
教皇のいないローマは荒れた。人口は減り、大聖堂は傷んだまま放置された。1347年には、公証人の子コーラ・ディ・リエンツォが民衆を率いて古代ローマの共和政の復活を唱え、一時は町を握っている。ローマの人々にとって、教皇の帰還は信仰の問題であると同時に、町の暮らしの問題でもあった。
ローマへ戻れという声は、イタリアから絶えなかった。ウルバヌス5世は1367年にいったん戻ったが、3年で引き返している。グレゴリウス11世が1377年1月にローマに入り、教皇庁の帰還はようやく実現した。シエナのカテリナが手紙で帰還を強く促したことが知られている。
ところがグレゴリウス11世は翌1378年に死ぬ。ローマの群衆に囲まれた中で選ばれたイタリア人の教皇に対し、フランス人枢機卿たちは選挙は無効だとして別の教皇を立てた。ローマとアヴィニョンに教皇が並び立つ教会大分裂の始まりである。1409年には三人目まで現れ、決着はコンスタンツ公会議まで持ち越された。

この70年近くのあいだに、教皇はキリスト教世界の上に立つ存在から、王たちと駆け引きをする君主の一人に見えるようになった。イングランドのジョン・ウィクリフは教皇の権威そのものを問い直し、その考えはボヘミアのフスへ渡る。教会への不信が積み重なった先に、マルティン・ルターが現れる。