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Event / できごと

ベオグラードの包囲(1456年)

Siege of Belgrade
AD1456年7月22日
重要度 4

概要

コンスタンティノープルの3年後、メフメト2世がハンガリーの門へ。フニャディ・ヤーノシュと、説教僧カピストラーノが集めた農民の十字軍が退けた。教皇が正午の鐘を命じ、いまも教会は正午に鳴らす。フニャディは3週間後に疫病で死んだ。

場所

ナーンドルフェヘールヴァール(ベオグラード)
44.82°N 20.46°E · セルビア

関わった人(1)

メフメト2世AD1432年3月30日–AD1481年5月3日 · 退いた

本文

1453年5月。 「次はハンガリー」。 ナーンドルフェヘールヴァール。ベオグラード。「白い城」。 サヴァとドナウの合流。ハンガリーの南の門。 1456年。メフメト2世。24歳。 「セルビアを通って」。 7万から10万。300門の砲。「コンスタンティノープルのより大きい」。 フニャディ・ヤーノシュ。トランシルヴァニアの総督。「白い騎士」。 兵がない。王ラースロー5世は逃げた。 カピストラーノ。ジョヴァンニ。フランチェスコ会。70歳。「十字軍」。教皇カリストゥス3世。 農民。学生。「鎌と棍棒」。数万。 6月29日、教皇。「正午に鐘を。祈りを」。「ブッラ・オラティオヌム」。 7月4日、包囲。 7月14日、フニャディが船で、オスマンの船の鎖を破って、城に入った。 7月21日、総攻撃。夜。 「イェニチェリが城壁に」。 「タールと薪を投げて、燃やした」。 7月22日。 農民が勝手に城を出た。カピストラーノが止めようとして、「主が」と言って、先頭に立った。 フニャディが続いた。 砲を取った。 メフメトが自分で戦って、腿に矢。 夜、退いた。 8月11日、フニャディが死んだ。疫病。 10月23日、カピストラーノ。疫病。 「正午の鐘」。 教皇の命令は包囲の前に出ていたが、勝利の知らせが8月6日にローマに届いて、「勝利の記念」に変わった。 いまも、カトリックの教会は正午に鳴らす。 ハンガリーでは「ナーンドルフェヘールヴァールの勝利の鐘」。 フニャディの息子マーチャーシュ。1458年、王。 1521年、スレイマンがベオグラードを取った。 1526年、モハーチ。 「70年」。 「ベオグラードが、ハンガリーを70年守った」。 「農民の十字軍が」。 カピストラーノは1690年に聖人。 「サン・フアン・カピストラーノ」。カリフォルニアの伝道所。燕。 フニャディ。「トルコ人の恐怖」。 ブダの王宮に像。 ベオグラードの城。カレメグダン。 いまはセルビアの首都の公園。

同じ時代のできごと

イロコイ連邦の成立(大平和の法)AD15世紀頃(1142年説もある)カビールの詩AD15世紀モアの絶滅AD15世紀ノルウェー領グリーンランドの終焉AD15世紀半ばブルネレスキのドームAD1436年ウルグ・ベクの星表AD1437年パチャクティの拡大AD1438年インカ帝国の拡大AD1438年