ベオグラードの包囲(1456年)
概要
コンスタンティノープルの3年後、メフメト2世がハンガリーの門へ。フニャディ・ヤーノシュと、説教僧カピストラーノが集めた農民の十字軍が退けた。教皇が正午の鐘を命じ、いまも教会は正午に鳴らす。フニャディは3週間後に疫病で死んだ。
場所
44.82°N 20.46°E · セルビア
関わった人(1)
メフメト2世AD1432年3月30日–AD1481年5月3日 · 退いた本文
1453年5月、オスマン帝国の若いスルタンメフメト2世は、千年続いたビザンツの都を攻め落とした(コンスタンティノープル陥落)。ヨーロッパのキリスト教世界は震え上がった。次に狙われるのは、ドナウ川の向こうのハンガリー王国だと誰もが考えた。その南の入口にあたるのが、サヴァ川がドナウ川に注ぐ合流点の崖の上に建つ要塞、ベオグラードである。ハンガリーではナーンドルフェヘールヴァールと呼ばれていた。ここを抜かれれば、ハンガリーの平原まで遮るものは無い。
ハンガリー側の守りの柱は、トランシルヴァニア出身の武将フニャディ・ヤーノシュだった。若いころからオスマン軍と戦い続け、勝ちも負けもしながら、トルコ人の恐れる名になっていた。幼い王ラースロー5世の摂政を務めたこともあるが、宮廷の大貴族たちとは対立しており、いざとなっても国の軍を思うように動かせなかった。

もう一人の主役は、イタリア生まれのフランチェスコ会の修道士、カピストラーノのジョヴァンニである。70歳になっていたこの説教師は、教皇カリストゥス3世の呼びかけに応えて、ハンガリーとその周りの国々を巡り、オスマンに立ち向かう十字軍を説いた。王や騎士はほとんど集まらなかったが、農民、職人、学生、貧しい僧たちが、鎌や棍棒や投石器を手に数万人も集まった。教皇は1456年6月29日、キリスト教徒の勝利を祈るため、毎日正午に教会の鐘を鳴らして祈るよう命じる勅書を出した。
1456年の夏、メフメト2世は大軍を率いてベオグラードに迫った。兵の数は6万から10万ほどと推定され、コンスタンティノープルの城壁を砕いたのと同じような大砲を何百門も引き連れていたとされる。7月4日、包囲が始まった。オスマン軍はドナウ川にも船を並べて要塞を外から切り離した。ハンガリーの王は、それより前に都のブダを離れて逃れていた。

7月14日、フニャディは集めた小舟の船団でドナウ川を下り、オスマンの船の封鎖に襲いかかった。激しい戦いの末に封鎖を破り、援軍と食糧を要塞に送り込んだ。それでもオスマン軍の砲撃は昼夜続き、城壁は崩れていった。7月21日の夜、スルタンは総攻撃を命じた。精鋭の常備歩兵イェニチェリが城壁の割れ目から町になだれ込み、要塞の中まで迫った。守る側は、タールを染みこませた薪や枝の束に火をつけて投げ落とし、壁の下の敵を火の中に閉じ込めた。夜明けまでに、攻め手は追い返された。
翌22日、思いがけないことが起きた。命令を受けていない十字軍の農民たちが、勝手に城壁の外へ出てオスマンの陣に小競り合いを仕掛けたのである。カピストラーノは彼らを呼び戻そうと飛び出したが、戦いが広がるのを見ると、自ら先頭に立って兵を励ましたと伝えられる。好機と見たフニャディも騎兵を率いて打って出た。不意を突かれたオスマンの陣は崩れ、大砲が奪われた。メフメト2世は自ら剣を取って戦い、腿に矢を受けて負傷したという。その夜、オスマン軍は大砲や荷物の多くを捨てて退いていった。
勝利の代償は大きかった。陣営に広がった疫病で、フニャディは8月11日に死んだ。カピストラーノも10月23日に後を追った。それでもこの勝利は、オスマン帝国のハンガリーへの進撃を、それから70年近く食い止めた。フニャディの息子マーチャーシュ(マティアス)は1458年に王に選ばれ、ハンガリーに強い王権とルネサンスの文化をもたらした。ベオグラードが再び攻められて落ちたのは1521年、スレイマン1世のときで、その5年後のモハーチの戦いでハンガリー王国は崩れ、オスマン軍は1529年にはウィーンにまで迫る(第一次ウィーン包囲)。

正午の鐘は、この戦いと結びついて今に残った。教皇の勅書は包囲の前に出されたものだったが、各地に届くより先に勝利の知らせが伝わり、多くの人々は鐘を勝利の記念と受け取った。カトリックの国々では、いまも正午に鐘を鳴らす教会が多く、ハンガリーではベオグラードの勝利を思い起こす鐘として語られている。カピストラーノは1690年に聖人に列せられ、のちにスペイン人がカリフォルニアに建てた伝道所に、その名が付けられた。ベオグラードの要塞の跡は、いまセルビアの首都の真ん中で、カレメグダンと呼ばれる公園になっている。