ピピンの寄進

概要
フランク王がランゴバルドから奪った土地を教皇に渡した。教皇領が生まれ、教会が領主になる。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
関わった人(1)
ピピン3世(小ピピン)AD714年–AD768年 · 王本文
6世紀の後半、イタリアに入ったランゴバルド人は、半島の多くを支配下に置いた(ランゴバルドのイタリア侵入)。ローマとラヴェンナの周辺などは、なお東ローマ帝国の領土として残っていた。ローマの教皇は名目上、皇帝の臣下だったが、遠いコンスタンティノープルの皇帝は、イタリアを守る兵をほとんど送れなかった。8世紀には、帝国で聖像の崇敬を禁じる動きが起き(聖像破壊論争)、これを認めない教皇との間に溝が深まった。
751年、ランゴバルド王アイストゥルフは、東ローマのイタリア統治の拠点ラヴェンナを落とし、ローマにも貢ぎ物を要求した。追い詰められた教皇ステファヌス2世は、753年、アルプスを越えてフランク王国へ向かった。教皇がアルプスの北へ赴くのは、これが初めてだった。

フランクの王ピピン3世(小ピピン)は、宮宰の家に生まれた人物である。父のカール・マルテルの時代から、フランクの実権はメロヴィング家の王ではなく宮宰が握っていた。751年、ピピンは名ばかりの王を修道院に送り、自ら王になった。このとき前の教皇ザカリアスは、力を持つ者が王と呼ばれるほうがよい、という趣旨の答えを与えたと、フランク側の年代記は伝える。王位を奪ったピピンにとって、教皇の後ろ盾は願ってもないものだった。
754年、教皇はパリ近くのサン・ドニ修道院で、ピピンとその息子たちに聖油を注ぎ、「ローマ人のパトリキウス(保護者)」の称号を与えた。その見返りに、ピピンはランゴバルドから奪われた土地を取り戻して教皇に渡すことを約束した。ピピンはこの年と756年の二度、アルプスを越えてイタリアに攻め込み、アイストゥルフを降伏させた。

756年、ピピンは、ラヴェンナからローマに至る町々を教皇に引き渡した。家臣の修道院長フルラドが町を回って鍵を受け取り、寄進の文書とともにローマの聖ペテロの墓に供えたと伝えられる。東ローマの使者は、それらは皇帝の土地だから返せと求めたが、ピピンは、自分は聖ペテロのために戦ったのであり、誰のためでもない、と言って拒んだという。こうして、教皇が世俗の君主として治める教皇領が生まれた。
この寄進と同じころに作られたとみられるのが、「コンスタンティヌスの寄進状」と呼ばれる文書である。4世紀の皇帝コンスタンティヌス1世が、病を癒やしてくれた教皇に感謝して、ローマと西方の支配を委ねた、という内容だった。作られた時期と場所には諸説あり、ピピンとの交渉に実際に使われたかどうかは分かっていない。
文書は、皇帝が都を東のコンスタンティノープルへ移したのは、教皇が治めるべき西方に皇帝がとどまるのはふさわしくないからだ、という筋立てになっている。教皇が東ローマの皇帝の支配を離れ、西方で独自の権威を主張しようとしていた8世紀の事情が、そのまま反映されているように見える。この文書はその後、中世を通じて教皇の権威の根拠として持ち出された。1440年、イタリアの人文学者ロレンツォ・ヴァッラが、4世紀には無かった言葉づかいを指摘して、偽作であることを論証した。
ヴァッラは、当時教皇と対立していたナポリ王に仕えており、その論証には政治的な目的もあった。それでも、言葉の歴史から文書の時代を割り出すという彼の手法は、史料を批判的に読む近代の歴史学の先駆けとして評価されている。
ピピンの息子カール大帝は、774年にランゴバルド王国そのものを滅ぼし(ランゴバルド王国の滅亡)、父の寄進を確認した。800年、教皇はローマでカールに皇帝の冠を授ける(カール大帝の戴冠)。教皇とフランクの王との結びつきは、ここで西ヨーロッパの新しい秩序の柱になった。

教皇領は、中部イタリアにまたがる国として1000年以上続いた。19世紀のイタリア統一の中で領土を失い、1870年にローマがイタリア王国に占領されて、教皇の世俗の支配は終わった。いまの教皇の国は、1929年の条約で認められたヴァチカン市国で、面積はおよそ0.44平方キロにすぎない。