できごと

ヒエロニムスのウルガタ

Jerome completes the Vulgate
AD405年
重要度 4
古シベリアの狩猟採集民コイサンローマフィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民西アフリカの穀作農民ササン朝ペルシア柔然西ローマ帝国ペルシアグプタ朝東ローマ帝国フン帝国スーレーン家の王国メロエサータヴァーハナ朝ヒムヤル王国コーカサスのアランガーナ王国アクスム王国ヒンドゥーの諸王国ハドラマウトブレンミュエスYueban西ゴート東ゴートAD405年ベツレヘム
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概要

ベツレヘムの洞窟で20年、ヘブライ語から直接ラテン語に聖書を訳した。ギリシア語訳から重ねて訳す習慣を捨て、「ヘブライの真理」に戻った。以後1000年、西方の聖書はこれ一つだった。

場所

ベツレヘム
31.70°N 35.20°E · パレスチナ

関わった人(1)

ヒエロニムスAD347年頃–AD420年9月30日 · 訳者

本文

ヒエロニムスは、347年ごろ、いまのクロアチアかスロヴェニアのあたり、ダルマティアのストリドンという町に生まれた。若くしてローマに出て、ラテン語の文法と弁論を学んだ。キケロやウェルギリウスの文章を愛し、のちに夢の中で、神の裁きの座から、おまえはキリスト者ではなくキケロの徒だと叱られた、と手紙に書いている。

青年になって洗礼を受けた彼は、修道の生活にひかれ、東方へ旅立った。シリアの砂漠で隠者として暮らしたとき、キリスト教に改宗したユダヤ人について、ヘブライ語を学びはじめた。その後、コンスタンティノープルでギリシア語の神学者たちのもとで学んだ。ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語の三つに通じた学者は、当時の西方の教会にはほとんどいなかった。

カラヴァッジオによる絵画「執筆する聖ヒエロニムス」
カラヴァッジオによる絵画「執筆する聖ヒエロニムス」Wikimedia Commons Caravaggio · Public domain

382年、ヒエロニムスはローマに戻り、教皇ダマスス1世のそばで働くことになった。教皇は彼に、ラテン語の福音書を、ギリシア語の原文に照らして正すよう命じた。それまで西方の教会で使われていたラテン語の聖書は、各地で別々に訳されたものの寄せ集めで、写すたびに違いが増えていた。ヒエロニムス自身、写本の数だけ訳がある、と嘆いている。

ローマでのヒエロニムスは、裕福な貴族の女性たちに聖書と禁欲の生活を教えた。一方で、聖職者たちの堕落を辛辣に批判し、多くの敵を作った。384年に教皇ダマススが死ぬと、後ろ盾を失った彼は、中傷と敵意に追われるようにローマを去った。弟子の寡婦パウラと、その娘エウストキウムが後を追った。

ウルガタの写本(ザンクト・ガレン修道院蔵)
ウルガタの写本(ザンクト・ガレン修道院蔵)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

386年、一行はベツレヘムに落ち着いた。キリストが生まれたとされる地である。パウラの財産で、男子と女子の修道院と、巡礼者のための宿が建てられた。ヒエロニムスは、降誕の洞窟の近くで、生涯の残りを過ごすことになる。彼はユダヤ人の学者を教師に雇い、ヘブライ語の学びを深めた。その教師は、ユダヤ人の仲間の目をはばかって、夜にひそかに訪ねてきたと、彼は書いている。

390年ごろから、ヒエロニムスは、旧約聖書をヘブライ語の原典から直接ラテン語に訳す仕事に取りかかった。それまで教会は、紀元前に作られたギリシア語訳、いわゆる七十人訳を聖なる本文として重んじ、ラテン語の旧約もそこから重ねて訳されていた。ヒエロニムスは、原典であるヘブライ語の本文にこそ立ち返るべきだと考えた。彼はそれを「ヘブライの真理」と呼んだ。仕事は、405年ごろまで15年ほど続いた。

アミアティヌス写本、エズラを描いた一葉
アミアティヌス写本、エズラを描いた一葉Wikimedia Commons Public domain

この方針には、強い反対があった。北アフリカのアウグスティヌスは手紙で、七十人訳は使徒たちも用いた教会の聖書であり、ヘブライ語から訳し直せば、ギリシア語を使う東方の教会とのあいだに溝ができると懸念した。アウグスティヌスは、ある町で起きた騒ぎを伝えている。預言者ヨナの物語で、ヨナに日陰を作った植物を、それまでの訳の瓢箪から、ヒエロニムスの訳では蔦に変えたところ、それを聞いた会衆が騒ぎ出し、司教は危うく信徒を失いかけたという。耳慣れた言葉を変えることへの抵抗は、それほど強かった。

ヒエロニムスは論争を恐れない人で、手紙の中で論敵をしばしば痛烈にののしった。それでも、アウグスティヌスとは、ぶつかり合いながらも手紙のやりとりを続けた。420年、ヒエロニムスはベツレヘムで死んだ。のちの絵画では、書斎で書きものをする老学者の足もとに、ライオンが寝そべっている姿で描かれることが多い。とげを抜いてやったライオンがなついたという伝説によるもので、これは後世の創作である。

Bible.malmesbury.arp
Wikimedia Commons Anonymous (photo by Adrian Pingstone) · Public domain

彼の訳は、すぐには広まらなかった。だが、6世紀から7世紀にかけてしだいに使われるようになり、8世紀ごろには西方の教会でほぼ標準の聖書になった。カール大帝の時代には、写本の誤りを正す改訂も行われた。「ウルガタ」とは、ラテン語で「広く行きわたった」という意味で、13世紀ごろからこの名で呼ばれる例が現れ、のちに定着した。

1000年にわたって、西ヨーロッパの人びとが聞き、学んだ聖書は、ほとんどがこのラテン語訳だった。神学も、法も、文学も、その言葉の上に築かれた。1455年ごろ、グーテンベルクが活版で印刷した最初の大きな本も、ウルガタの聖書である(グーテンベルクの活版印刷)。ミケランジェロのモーセ像の頭に角があるのは、モーセの顔が光を放っていたという箇所を、ウルガタが「角のある」と訳したためとされる。

グーテンベルクの活版印刷に関わる図版:Gutenberg press
グーテンベルクの活版印刷Wikimedia Commons International Printing Museum · CC0

16世紀、宗教改革者たちは、ヒエロニムスと同じように原典に立ち返り、民衆の言葉で聖書を訳した(ルターのドイツ語訳聖書)。カトリック教会はこれに対し、1546年、トレント公会議で、ウルガタを公の場で用いる正統なラテン語の聖書と定めた。原典に戻ろうとしたヒエロニムスの訳が、1100年あまりのちに、今度は原典に戻ろうとする人びとに対する伝統の側の盾になったのである。

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