コルンバ
概要
アイルランドの王族に生まれた僧。写本の所有をめぐる争いが戦争になり、その償いに故郷を出て、アイオナに修道院を建てたと伝わる。ピクト人の王を改宗させ、ネス湖の怪物を退けたと伝記にある。
関わったできごと(1)
コルンバのアイオナ修道院AD563年 · 創設本文
コルンバは、6世紀のアイルランドの修道士で、スコットランド西岸の小島アイオナに修道院を開いた人である。アイルランド語ではコルム・キレ(教会の鳩)と呼ばれ、ラテン語の「コルンバ」も鳩を意味する。パトリキウス(聖パトリック)、聖ブリギッドと並ぶアイルランドの守護聖人で、スコットランドにキリスト教を広めた人としても敬われている。大陸で修道院を開いたコルンバヌスとは名が似ているが別人である。

521年12月7日、アイルランド北西部ドニゴールのガータンに生まれた。父フェデリミドは、当時アイルランド北部で最も力のあったウイ・ネイル一族の王族で、母エトネはレンスターの王家の出だったと伝えられる。生まれたときの名はクリムタン(狐)だったともいう。王になってもおかしくない家柄の子が、教会の道を選んだことになる。クロナードとムーヴィルの二人のフィニアンのもとで学び、司祭になって、デリーやダロウに修道院を開いたとされる。
コルンバは書物を写すことで知られた。いまダブリンのアイルランド王立アカデミーにある詩篇の写本『カタック』は、彼が自分の手で写したものだと伝えられてきた。カタックは「戦士」の意味で、のちにコルンバの一族の流れをくむオドンネル家が、勝利を祈って戦場へ持ち出したことからこう呼ばれる。現存するアイルランド最古の写本の一つで、6世紀末から7世紀初めのものとされるから、本人の筆という言い伝えも、ありえないとは言い切れない。
561年、アイルランド西部でクール・ドレヴネの戦いが起き、コルンバの一族である北のウイ・ネイルが、上王ディアルマイトの軍を破った。この戦いをコルンバが引き起こしたとする話が後世に生まれる。師フィニアンの写本を無断で写したところ、王ディアルマイトが「子牛はすべて母牛のものであり、写しはすべて元の本のものだ」と裁き、怒ったコルンバが一族を動かしたというものだ。著作権をめぐる最古の争いとして紹介されることもあるが、この話が文字に残るのは16世紀で、史実とは考えにくい。コルンバの保護を求めた若者を王が殺したことが原因だったとする伝えもある。彼が戦いの後に教会の会議で咎められたことは、7世紀末の伝記にも書かれている。
563年、コルンバは12人の仲間とともにアイルランドを離れ、アイオナに渡った(コルンバのアイオナ修道院)。戦死者への償いとして、死者と同じ数の魂を救うまで故郷を見ない旅に出たのだ、という話は後世のものである。7世紀末の伝記はただ、キリストのために異郷を旅することを望んだと書く。故郷を捨てて神に仕えることは、アイルランドの修道士にとって最も重い苦行の一つだった。島はアイルランドから渡ってきた人々の王国ダルリアダの王コナルから与えられたとされ、コナルはコルンバの親族だった。
それから34年、コルンバはアイオナを拠点に活動した。北のピクト人の王ブリデイを、いまのインヴァネスのあたりの砦に訪ねたことは確かで、ベーダはブリデイがこのとき改宗したと書く。ただし、アイオナで書かれた伝記は王の改宗をはっきりとは書いていない。その旅の途中、ネス川で人を襲った獣にコルンバが十字を切って命じると、獣は逃げ去ったという奇跡の話が伝記に収められており、のちにネス湖の怪物の最古の記録として有名になった。574年ごろには、ダルリアダの新しい王エイダンを聖別した。教会の人が王を聖別した記録としては、ブリテン諸島で最も古いものとされる。575年ごろ(590年ごろとする説もある)にはアイルランドに戻ってドルム・ケットの会議に出席し、詩人たちを国から追放しようとする動きを取りなして止めたと伝えられる。自身も詩を作り、創造から最後の審判までを歌うラテン語の讃歌「アルトゥス・プロサトル」は彼の作とされる。
最期の様子は、伝記に詳しく描かれている。597年6月、老いたコルンバは、自分の死が近いことを弟子たちに告げた。最後の日も写本を写していて、詩篇の「主を求める者は、良いものに何一つ欠けることがない」という一節まで来ると筆を置き、「ここで止めよう。続きはバイティンが書くがよい」と言った。バイティンは彼の後を継いで修道院長になる弟子である。修道院へ戻る途中、荷を運んでいた白い馬が近寄ってきて、別れを悲しむように彼の胸に頭を寄せて泣いたので、追い払おうとした従者をコルンバは止めたという。その夜、真夜中の祈りの鐘が鳴ると、彼は誰よりも早く聖堂に入り、祭壇の前で倒れて息を引き取った。6月9日のことで、同じ年、ローマから送られたアウグスティヌスがイングランドのケントに上陸している(アウグスティヌスのケント布教)。
こうした話を伝えるのは、アイオナの9代目の修道院長アダムナーンが、コルンバの死からおよそ100年後に書いた『聖コルンバ伝』である。奇跡を集めた聖人伝で、そのまま史実とは読めないが、島の暮らしや当時の地名が細かく書かれていて、中世初期のスコットランドを知る貴重な史料になっている。
アイオナはその後、北ブリテンとアイルランドの修道院を束ねる中心になった。635年にはアイオナの修道士アイダンがノーサンブリアに招かれてリンディスファーンに修道院を開き、イングランド北部にキリスト教を広めた。アイオナの修道院はヴァイキングの襲来の後、ヴァイキングに繰り返し襲われ、9世紀の初めに修道士の多くがアイルランドのケルズへ移った。華麗な装飾で知られる『ケルズの書』は、この時期にアイオナで作り始められたとする説が有力である。