メノッキオの異端審問
概要
村の粉挽きが、世界は腐ったチーズから生まれたと語った。本を読み、自分で考え直した男の宇宙論が、審問の記録に残った。二度目の審問のあと火刑になる。
場所
46.16°N 12.66°E · イタリア・フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州
関わった人(1)
メノッキオ(ドメニコ・スカンデッラ)AD1532年–AD1599年 · 裁かれた本文
イタリア北東部、アルプスのふもとのフリウリ地方に、モンテレアーレという小さな村がある。16世紀、そこにドメニコ・スカンデッラという粉挽きが住んでいた。通称をメノッキオ(ドメニコ・スカンデッラ)という。1532年の生まれで、粉挽きのほかに大工や石工の仕事もし、村長を務めたこともあった。そして、読み書きができた。
16世紀のヨーロッパでは、印刷術が広まって本が安くなり(グーテンベルクの活版印刷)、村の職人でも本を手にできるようになっていた。同じころ、宗教改革で教会は大きく揺れていた。カトリック教会はトレント公会議で教えを固め直し、異端審問で人びとの信仰を厳しく見張るようになる。フリウリは、プロテスタントの広がるドイツ語圏と境を接する土地だった。

メノッキオは話し好きだった。村の人をつかまえては、神やキリストや教会について、自分の考えを語った。1583年、村の司祭が彼を異端の疑いで訴えた。
翌1584年、審問が始まった。審問官の前で、メノッキオは黙りもせず言い逃れもせず、自分の考えを進んで述べた。はじめに混沌があった。土も空気も水も火も、すべてが混ざり合っていた。それが、牛乳からチーズができるように塊になり、そこから蛆虫が湧くように天使たちが生まれた。その中のひとりが神になった。
ほかにも彼は語った。キリストは人間であり、聖母マリアは処女ではなかった。教会の秘跡は金もうけのためのものだ。そして、どの宗教でも、よく生きればそれでよい。審問官は、どこでそんなことを聞いたのか、誰に教わったのかと繰り返し尋ねた。異端の仲間がいるはずだと考えたのだ。
彼は、読んだ本の名を挙げた。イタリア語訳の聖書、聖人の伝記の本、マンデヴィルの旅行記、年代記、そしてボッカッチョの『デカメロン』。どれにも、チーズと蛆虫の話は書かれていない。たとえば、三つの指輪の話がある。父が三人の息子に見分けのつかない指輪を残し、どれが本物か誰にも分からない。『デカメロン』では、ユダヤ教とキリスト教とイスラームのたとえとして語られる話で、メノッキオはそこから、どの信仰にも救いがあるという考えを引き出していた。彼は、読んだものを自分の頭の中で組み替え、村に古くから伝わる語りと混ぜ合わせていた。

1584年、彼は異端と判定されたが、悔悛を示したため死刑は免れた。終身の投獄を言い渡され、2年ほど牢に入れられたあと、悔悛者の衣を着続けること、村から出ないことを条件に釈放された。村へ戻り、粉挽きの仕事に戻った。
それでも、語るのをやめなかった。1598年にまた訴えられ、翌年、二度目の審問が開かれた。67歳ほどになっていた。一度悔悛を認められた者が再び異端に戻れば、もう許されない。ローマの審問所の高官は、厳しい処分を求める手紙を地方の審問官に送っている。1599年、メノッキオは火刑に処された。同じころ、ローマではジョルダーノ・ブルーノの裁判が続いていた。
審問の記録は、驚くほど詳しい。書記が、審問官の問いとメノッキオの答えを、ほとんどそのまま書き留めていたからだ。言いよどみ、言い直し、ときには審問官に向かって自分の考えを説いてきかせる粉挽きの声が、紙の上に残った。彼は、自分の考えを偉い人たちの前で話す機会を、むしろ待っていたようにも見える。
二度の裁判の記録は、アクイレイアとコンコルディアの司教区の文書館に残った。1970年代、イタリアの歴史家カルロ・ギンズブルグはこの記録を読み込み、1976年に一冊の本にまとめた。『チーズとうじ虫』である(物語「『チーズとうじ虫』で読む一人の宇宙」)。書き残すことのなかった民衆の頭の中を、審問官が質問を重ねて書き留めた記録から読み解く。王や学者ではなく、名もない一人の村人を主人公にしたこの本は、「ミクロストリア」と呼ばれる歴史の書き方の代表作になった。顕微鏡で小さな一点を拡大するように、一つの村、一人の人生を細かく見ることで、大きな歴史の動きを別の角度から照らす方法である。
一人の変わり者の例を、民衆の文化全体にまで広げすぎている、という批判もある。メノッキオがどこまで村の人びとと考えを分け合っていたのかは、記録からは確かめようがない。それでも、文字の読める一人の職人が、印刷された本と口伝えの知恵のあいだで、自分だけの世界の成り立ちを考え出していたことは、記録が示すとおりである。