人物

ミェシュコ1世

Mieszko I
AD930年頃 – AD992年(享年62・推定)
ポーランド王国重要度 3

概要

ピャスト家の最初の記録に残る君主。966年に洗礼を受け、ドイツの皇帝と戦ったり従ったりしながら、国をまとめた。死ぬ前に国を教皇に献じた文書が伝わる。

所属

ポーランド王国

関わったできごと(1)

ポーランドの受洗AD966年 · 受洗

本文

930年頃に生まれたとされる。ピャスト家の、記録に名が残る最初の君主である。12世紀初めにポーランドで書かれた年代記は、農夫ピャストに始まる祖先の系譜を並べ、ミェシュコは7歳まで目が見えなかったが、祝宴の日に光を得た、という話も伝えている。だがそれ以前の君主たちについては、確かめようがない。彼の名が同時代の記録に現れるのは、960年代になってからである。

ミェシュコ1世の肖像、マテイコ画
ミェシュコ1世の肖像、マテイコ画Wikimedia Commons Jan Matejko · Public domain

その記録はドイツの側にある。ザクセンの修道士ヴィドゥキントは、963年頃、ミェシュコがザクセンの貴族とスラヴの部族の連合軍に敗れたことを書いている。ほぼ同じ頃、スペインから来たユダヤ人の旅行者イブラーヒーム・イブン・ヤアクーブが中欧を旅し、北にあるミェシュコの国について書き残した。その王は3000人の甲冑を着けた兵を抱え、兵には給与と衣服と武器を与えている、と。ヴァルタ川のほとりのグニェズノとポズナンを中心に、いくつもの部族をまとめ、城塞を築き、自前の軍を持つ国が、すでにできていた。

周りの情勢は厳しかった。西からは、オットー1世のもとで強くなったドイツの王国が、エルベ川の東のスラヴ人の土地へ勢力を伸ばしていた。異教の国であることは、キリスト教の世界から攻められる口実になる。南には、すでにキリスト教を受け入れていたボヘミアがあった。

965年、ミェシュコはボヘミアの君主ボレスラフ1世の娘ドブラヴァを妻に迎えた。そして翌966年、洗礼を受けた(ポーランドの受洗)。ドイツの教会を通さず、ボヘミアを通じてキリスト教を受け入れたことで、ドイツの干渉をかわしたと考えられている。968年にはポズナンに司教が置かれた。この受洗が、のちに国の始まりの年とされる。1966年、ポーランドでは建国千年の祝いが盛大に行われた。

ポーランドの受洗に関わる図版:Matejko Christianization of Poland
ポーランドの受洗Wikimedia Commons Jan Matejko · Public domain

ドイツとの関係は、従うことと戦うことの繰り返しだった。皇帝オットー1世には貢ぎ物を納めて従い、「皇帝の友」と呼ばれた。972年には、ドイツの辺境伯がミェシュコの国に攻め込んだが、オドラ川のほとりのツェディニャで撃退している。皇帝の死後、跡継ぎをめぐるドイツの内紛では、皇帝の敵の側につき、のちにはまた皇帝に従った。妻ドブラヴァが977年に死ぬと、ドイツの辺境伯の娘オダを修道院から連れ出して妻にしている。

晩年には、南のシロンスク(シレジア)とマウォポルスカ(クラクフのあたり)をボヘミアから奪ったとされ、国の広さはいまのポーランドの骨格に近いものになった。

伝説によれば、ミェシュコは生後7年間盲目で、異教の成人儀礼「初めての断髪」で視力を得たという
伝説によれば、ミェシュコは生後7年間盲目で、異教の成人儀礼「初めての断髪」で視力を得たというWikimedia Commons Anonymous plate XIX century · Public domain

死の前に、自分の国を教皇に献じる文書を作った。「ダゴメ・ユデクス」と呼ばれる。原本は失われ、11世紀の後半にローマで作られた教会法の集成に、短い要約が残っているだけだ。そこには、「裁判官ダゴメ」と妻オダ、二人の息子が、グニェズノを中心とする国を、その境界とともに聖ペテロに捧げた、と書かれている。国を教皇の保護のもとに置くことで、ドイツの皇帝から自分の国を守ろうとしたのだと考えられている。ただ、ミェシュコの名がなぜ「ダゴメ」と書かれているのかは、いまも分からない。写し間違いとする説、洗礼名とする説などがある。

992年5月25日に死去した。文書でオダとその子たちにも国を分けようとしていたが、先妻の子ボレスワフ1世がオダと異母弟たちを追い出し、国を一人で継いだ。ボレスワフは父の築いた国をさらに広げ、1025年、ポーランドの最初の王として戴冠する(ポーランド王国)。

ヴィヒマン(若)がミェシュコに降伏する場面、スムグレヴィチ画(19世紀初頭)
ヴィヒマン(若)がミェシュコに降伏する場面、スムグレヴィチ画(19世紀初頭)Wikimedia Commons Ephraim Gottlieb Krüger · Public domain

ミェシュコ自身は王を名乗らなかった。だが、異教の部族の国を、キリスト教の国としてヨーロッパの地図の上に置いたのは彼である。強大な隣国に挟まれ、ときに従い、ときに戦い、最後は遠いローマに国を託す。そのやり方は、その後のポーランドの長い歴史を、早くも先取りしているようにも見える。

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