概要
益田四郎時貞。小西行長の遺臣の子。16歳。「天から降った童子が現れる」というマルコス神父の予言の子とされ、盲目の少女の目を開けたと言われ、島原と天草の一揆3万7000の総大将に立てられた。原城で3か月。首は長崎で晒された。誰が首か分からず、母に見せて確かめた。
関わったできごと(1)
島原の乱1637年 · 総大将本文
益田四郎時貞。1621年頃、肥後の宇土か天草の大矢野。父益田甚兵衛は小西行長の遺臣で、関ヶ原のあと農民になった。洗礼名ジェロニモ、のちフランシスコ。
長崎で学問をした、と言う。小西の遺臣たちが、追放された宣教師マルコス・フェラーロの予言「25年後、16歳の天童が現れて、人々を救う」を持ち出し、四郎を立てた。「四郎が手を触れると盲目の少女の目が開いた」「四郎が海の上を歩いた」「鳥が四郎の手に卵を産んだ」。
1637年10月、島原の有馬村で、代官を殺して一揆が始まった。島原藩主松倉勝家の重税とキリシタン弾圧(雲仙の熱湯、蓑踊り)。天草でも。四郎が総大将。12月、島原と天草の一揆3万7000(女子供を含む)が原城に籠もった。旗に「LOVVADO SEIA O SANCTISSIMO SACRAMENTO(いと聖なる秘跡は讃えられよ)」。
幕府は板倉重昌を送り、正月の総攻撃で重昌が死んだ。松平信綱が12万で来た。兵糧攻め。オランダ船に海から砲撃させた(オランダは撃った。イギリスとポルトガルに「キリスト教徒を撃った」と非難された)。1638年2月28日、総攻撃。3万7000、ほぼ全員が殺された。生き残りは1人(山田右衛門作、絵師、内通していた)。
四郎の首は、肥後の陣佐左衛門が取った。誰の首か分からず、母(捕らえられていた)に見せて、母が泣いた。首は長崎の出島の前に晒された。16歳。
松倉勝家は改易され、斬首された(大名で斬首は唯一)。翌1639年、ポルトガル船が禁じられた。鎖国。
天草の大矢野に、四郎の像。手に十字架を持って、海を見ている。