人物

天草四郎

Amakusa Shirō
AD1621年頃 – AD1638年4月12日(寛永15年2月28日)(享年17・推定)
島原の一揆重要度 4

概要

益田四郎時貞。小西行長の遺臣の子。16歳。「天から降った童子が現れる」というマルコス神父の予言の子とされ、盲目の少女の目を開けたと言われ、島原と天草の一揆3万7000の総大将に立てられた。原城で3か月。首は長崎で晒された。誰が首か分からず、母に見せて確かめた。

関わったできごと(1)

島原の乱1637年 · 総大将

本文

天草四郎は、島原の乱で一揆勢の総大将に立てられた少年である。本名は益田四郎時貞。キリシタンとしての洗礼名はジェロニモ、のちにフランシスコと伝わる。生まれは1621年か1622年ごろで、肥後の宇土とも、天草の大矢野島とも言われる。死んだとき16歳か17歳だった。

島原の乱に関わる図版:Shimabara-Battle-Map-c17th-century
島原の乱Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

父の益田甚兵衛は、キリシタン大名小西行長の家臣だった。行長は関ヶ原の戦いで西軍について敗れ、斬首された。主家を失った家臣たちの多くは、宇土や天草で百姓になって暮らした。彼らの多くはキリシタンだったが、1614年のキリシタン禁教令以後、信仰を捨てるよう迫られ、表向きは仏教徒として生きていた。四郎は長崎に出て学問をしたとも言われ、幼いころから利発だったと伝えられる。

島原と天草には、一揆の素地がそろっていた。島原の領主松倉氏は、身の丈に合わない城を築き、年貢を厳しく取り立てた。払えない百姓には、蓑を着せて火をつける「蓑踊り」のような責めを加えたと記録にある。キリシタンは雲仙の熱湯に浸けられて棄教を迫られた。天草を治める唐津の寺沢氏の取り立ても重かった。そこに、数年続いた凶作が重なった。

南蛮屏風に描かれた天草四郎
南蛮屏風に描かれた天草四郎Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

一揆を準備した旧小西家臣たちは、四郎を担ぎ出すとき、一つの予言を持ち出した。かつて国外へ追放された宣教師が、25年後に一人の天童が現れて人々を救うと書き残した、というものである。四郎が手を触れると盲目の少女の目が開いた、四郎の手に鳥が降りて卵を産んだ、といった奇跡の噂が、海を越えて島原と天草に広まった。こうした話は、のちに幕府側がまとめた記録にも残っている。

1637年10月、島原の有馬村で、百姓たちが代官を殺したのを合図に一揆が始まった。天草でも呼応して蜂起が起き、四郎はその総大将として天草勢を率い、寺沢氏の富岡城を攻めたが落とせなかった。12月、島原と天草の一揆勢は合流し、有馬氏の古い城で、廃城になっていた原城に立てこもった。籠城した数は2万数千とも3万7000とも言われ、女性や子どもも多く含まれていた。城には聖体をたたえる言葉を記した旗が掲げられた。この旗はいまも天草に残り、重要文化財になっている。

明石潮が四郎を演じた『栄光の剣』(1924年、東亜キネマ(等持院撮影所))
明石潮が四郎を演じた『栄光の剣』(1924年、東亜キネマ(等持院撮影所))Wikimedia Commons 泉沢悟朗(日本映画研究会, 1925) · Public domain

幕府はまず板倉重昌を送った。だが寄せ集めの諸藩の兵は城を攻めあぐね、1638年の元日の総攻撃で重昌は討ち死にした。代わって老中松平信綱が九州の大名を動員し、12万を超える軍で城を囲んだ。信綱は力攻めをやめ、城の食料が尽きるのを待った。平戸のオランダ商館に頼んで、海から船で城に大砲を撃ち込ませもした。もっとも、効き目は薄く、異国の手を借りることを恥とする声もあって、砲撃はまもなく打ち切られた。

2月の末、城内の兵糧がほぼ尽きたのを見て、幕府軍は総攻撃をかけた。城は二日で落ち、籠城していた者はほとんどが殺された。生き残ったのは、幕府軍に内通していた絵師の山田右衛門作ら、ごくわずかだったと伝えられる。四郎もこの日に討たれた。

南蛮屏風に描かれた天草四郎
南蛮屏風に描かれた天草四郎Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

四郎の首を取ったのは、肥後細川家の家臣だった。だが、四郎の顔を知る者は幕府軍にいなかった。似た年ごろの少年の首がいくつも持ち込まれ、捕らえられていた四郎の母に見せて確かめたところ、ある首を見て泣き崩れたので、それと定めたという。首は長崎でさらされた。

乱のあと、島原の松倉勝家は領地を取り上げられ、斬首された。江戸時代の大名で、切腹ではなく斬首に処されたのはこの一人だけである。寺沢氏も天草を没収された。幕府は一揆をキリシタンの反乱として扱い、取り締まりをいっそう強めた。翌1639年にはポルトガル船の来航を禁じ、鎖国の完成が完成する。

一揆の本当の原因が、重い年貢と凶作にあったのか、信仰にあったのかは、いまも議論が分かれる。両方が重なっていたと見るのが一般的である。担がれた少年が、自分を本当に天の使いだと信じていたのか、大人たちの計画の中で役を演じていたのかも、分からない。

それから200年以上たった1865年、長崎の大浦天主堂に、ひそかに信仰を守り続けてきた人々が名乗り出る(信徒発見)。天草の大矢野島には、いま十字架を手にした四郎の像が立ち、海を見ている。

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