ラリベラ
概要
岩を上から掘り下げて11の教会を作らせた。エルサレムへ行けなくなった巡礼のために、こちらにエルサレムを作るという考えだったと伝わる。
関わったできごと(1)
ラリベラの岩窟教会AD1200年頃 · 命じた王本文
12世紀の後半、エチオピア高原の北部、ラスタ地方に生まれた。生年は1162年頃とされるが確かではない。名はゲブレ・メスケル、「十字架の僕」を意味する。ラリベラの名は、伝承によれば、生まれたとき赤子の体を蜂の群れが包み、それを見た母が「蜂がこの子の王権を認めた」と言ったことから付けられたという。

彼の家ザグウェ朝は、かつて紅海交易で栄えたアクスム王国が衰えたあとに、高原の中央部で起こった王朝である。エチオピアの教会は、4世紀にアクスムのキリスト教化を果たして以来、エジプトのアレクサンドリアの教会と結びついた古いキリスト教を守っていた。ザグウェの王たちは熱心なキリスト教徒だったが、のちの時代には、古代イスラエルのソロモン王の血を引かない「簒奪者」として扱われることになる。
王になるまでのことは、ほとんど伝説でしか伝わらない。王位にあった兄が、弟が王になるという予言を恐れて毒を盛った。ラリベラは三日三晩眠り続け、その間に天使に天へ運ばれて、天上のエルサレムを見せられた。そして地上に同じものを造れと命じられた、というのが、のちに書かれた聖人伝の語る物語である。迫害を逃れてエルサレムに滞在したという話もある。歴史として確かなのは、12世紀の末に王位に就き、およそ40年治めたということくらいである。

その頃、地中海の向こうでは、十字軍とイスラームの軍がエルサレムを奪い合っていた。1099年に十字軍が聖地を奪い、1187年にはサラディンが取り返した(サラディンのエルサレム奪還)。エチオピアの巡礼者にとって、エジプトを通り、聖地まで旅することは、もともと命がけの長旅だった。
ラリベラは都ロハに、教会の群れを造らせた。他所から石を運んで積み上げるのではない。柔らかい火山岩の岩盤に、まず四方から深い溝を掘り、建物の形の巨大な岩の塊を削り出す。それから中をくり抜いて、柱、窓、天井、扉を彫り出していく。いわば、一つの岩から彫った建物である。こうして造られた11の教会が、いまに残る(ラリベラの岩窟教会)。

教会の配置には、聖地の地図が重ねられている。町を流れる小川はヨルダン川と名付けられ、ゴルゴタ、アダムの墓といった聖地の名を持つ場所がある。いちばん大きな救世主の家の教会は、一つの岩から彫り出した教会として世界でも最大級のものとされる。少し離れて立つ聖ゲオルギオスの教会は、上から見ると十字の形に掘り下げられており、地面の高さに屋根の十字架が浮かんで見える。行けなくなった聖地を、ここに造る。それが建設の動機だったと伝えられる。
伝承は、昼は人間が、夜は天使が工事をしたので短い年月で出来上がったと語る。教会の一つは、ラリベラの死後、王妃が夫を偲んで造らせたとも言われる。一方、考古学の研究からは、いくつかの建物はラリベラ以前からあったもので、もとは教会ではなく砦や宮殿だった可能性があるという説も出ている。全部が一人の王の治世に、一度に造られたわけではないかもしれない。どこまでがラリベラの事業なのかは、まだ議論が続いている。

ラリベラは1221年頃に亡くなったとされる。その死後、ザグウェ朝は半世紀ほどで倒れ、1270年、ソロモン王の血を引くと称するイェクノ・アムラクが新しい王朝を開いた(エチオピア・ソロモン朝の成立)。新しい王朝は、自分たちこそ正統だとする歴史を書いた。それでもラリベラだけは、その後もエチオピア教会の聖人として崇められ続けた。都ロハの名も、いつしか王の名で呼ばれるようになり、いまはラリベラという町になっている。
教会群は1978年、世界遺産の最初の登録の一つになった。800年後の今も、教会はただの遺跡ではなく、祈りの場として使われている。エチオピアの暦のクリスマスにあたる1月には、白い衣をまとった数万の巡礼者が各地から集まり、岩の溝の縁にびっしりと並んで夜通し祈る。王が地上に造らせたエルサレムには、いまも人が歩いて向かっている。