人物

テオドシウス1世

Theodosius I
AD347年1月11日 – AD395年1月17日(享年48)
ローマ帝国重要度 4

概要

ヒスパニアの将軍の子。ゴートと講和して帝国の中に住まわせ、キリスト教を国教にし、異教の神殿を閉じ、オリンピアの競技を終わらせた。死ぬとき帝国を二人の息子に分け、それきり一つに戻らなかった。

所属

ローマ帝国

関わったできごと(1)

テオドシウスの謝罪AD390年 · 皇帝

本文

テオドシウス1世は、帝国の東と西を一人で治めた最後のローマ皇帝である。キリスト教を事実上の国教とし、異教の祭儀を禁じ、そして死ぬときに帝国を二人の息子に分けた。後世「大帝」と呼ばれるが、その治世は、外から来た民族と内の宗教の両方で、ローマが後戻りできない方向へ踏み出した時代だった。

テオドシウス1世の死直後(395年)のローマ帝国の行政区画(英語)
テオドシウス1世の死直後(395年)のローマ帝国の行政区画(英語)Wikimedia Commons Shepherd, William R. · Public domain

347年、ヒスパニア(いまのスペイン)の北西部、カウカの町の近くで生まれた。父も同じテオドシウスという名の将軍で、ブリタニアで侵入者を撃退し、北アフリカで反乱を鎮めた功臣だったが、376年、理由のはっきりしないまま処刑された。宮廷の政争に巻き込まれたと見られている。息子のテオドシウスは軍の職を退き、故郷の領地に引きこもった。

運命を変えたのは378年のハドリアノポリスの戦いである。帝国の中に逃げ込んできたゴート族が反乱を起こし、東の皇帝ウァレンスが討ち死にした。ローマの野戦軍が丸ごと失われるほどの大敗だった。西の皇帝グラティアヌスは、翌379年1月、テオドシウスを呼び戻して東の皇帝に立てた。32歳だった。

ハドリアノポリスの戦いに関わる図版:Battle of Adrianople 378 en
ハドリアノポリスの戦いWikimedia Commons Bitva_u_Adrianopole.gif : Elias84 derivative work: Dipa_1965 ( talk ) · Public domain

テオドシウスはゴートを戦場で打ち破ることができなかった。数年の戦いののち、382年に条約を結ぶ。ゴートはドナウ川の南の帝国領に住み、自分たちの首領の下にとどまったまま、同盟者として兵を出す。それまでも異民族の兵はいたが、帝国の中に、帝国の法に従わない一つの民族がまとまって住み着くのは初めてだった。目の前の危機は収まったが、のちに彼らの中からアラリックが現れ、西ゴートとして西ゴートのローマ略奪に至る。

宗教では、彼は迷わなかった。380年、テッサロニキで重い病にかかって洗礼を受け、同じ年、ローマの司教とアレクサンドリアの司教が信じる信仰、つまりニケーア公会議の信条に従う者だけをカトリックのキリスト教徒と呼び、それ以外は異端とする勅令を出した(キリスト教の国教化)。翌381年にはコンスタンティノープルで公会議を開き、首都の教会から、キリストを父なる神より下に置くアリウス派を追い出した。

ニケーア公会議に関わる図版:Μιχαήλ Δαμασκηνός - Α΄ Οικουμενική Σύνοδος 7741
ニケーア公会議Wikimedia Commons C messier · Public domain

異教への締めつけは、治世の後半に強まった。391年から翌年にかけて、神殿での犠牲も、家の中での神々への供え物も禁じられた。アレクサンドリアでは、キリスト教徒の群衆が大神殿セラペイオンを打ち壊した。古代オリンピアの競技会も、伝統的には393年が最後とされる(ただし、その後もしばらく続いたとする研究もある)。ローマのフォルムで千年以上燃え続けたウェスタの火が消され、巫女たちが解散したのも、この治世の終わりのことである。一世代前のユリアヌスの異教復興は、完全に過去のものになった。

それでいて、この皇帝は教会に屈した皇帝としても記憶されている。390年、テッサロニキで民衆が駐屯軍の指揮官を殺すと、テオドシウスは報復を命じ、競技場に集められた市民が殺された。犠牲は七千人と伝えられる。ミラノの司教アンブロシウスは皇帝に聖体を拝ませず、公の場での悔い改めを求めた。皇帝は数か月後、皇帝の衣を脱いで教会で罪を告白した(テオドシウスの謝罪)。皇帝の権力の上に教会の道徳が立ちうることを示した場面として、中世を通じて語り継がれた。

モエシア属州の地図。テオドシウスは374年にモエシア1世の軍司令官を務めた
モエシア属州の地図。テオドシウスは374年にモエシア1世の軍司令官を務めたWikimedia Commons The_Roman_Empire_ca_400_AD.png : Cplakidas derivative work: Jbribeiro1 · Public domain

政治の上では、西の帝国の混乱に二度振り回された。383年、ブリタニアで兵に推された簒奪者マクシムスがグラティアヌスを殺し、テオドシウスは388年に西へ攻め込んでこれを倒した。392年には、西の若い皇帝ウァレンティニアヌス2世が謎の死を遂げ、フランク人の将軍アルボガストが文人のエウゲニウスを皇帝に立てた。エウゲニウスの陣営は異教の貴族たちの支持を集め、神々の像を軍旗に掲げた。394年9月、テオドシウスはアルプスの東の麓、フリギドゥス川で彼らと戦った。一日目は押されたが、二日目に激しい山風が敵の正面に吹きつけ、勝利したと伝えられる。この戦いで、ゴートの同盟軍は先陣に立たされて大きな損害を出した。その中には若いアラリックもいた。

勝ってミラノに入ったテオドシウスは、そこで病に倒れ、395年1月17日に死んだ。48歳。東は18歳ほどの長男アルカディウスに、西は10歳の次男ホノリウスに託され、将軍スティリコが後見に立った(ローマ帝国の東西分割)。帝国を複数の皇帝で分けて治めることは、それまでにも何度もあった。だが今度は、二度と一人の皇帝の下に戻らなかった。西は81年後に皇帝を失い、東はその後千年続く。

ドナウ川沿いのローマ属州(トラキア・ダキア・パンノニア・イタリア・アンノナリア管区)の地図、4世紀末
ドナウ川沿いのローマ属州(トラキア・ダキア・パンノニア・イタリア・アンノナリア管区)の地図、4世紀末Wikimedia Commons Cplakidas · Public domain

アンブロシウスは葬儀の説教で、彼を信仰の皇帝として讃えた。異教の側の歴史家ゾシモスは、帝国を傾けた浪費家として描いた。どちらの評価も、この人の一面である。ゴートを帝国の中に入れ、異教を閉じ、帝国を分けて去った。古代のローマと中世のヨーロッパの境目に立った皇帝だった。

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