アクスムのキリスト教化
概要
ローマとほぼ同時期に国教とした。エチオピア教会は以後1700年続き、いまも生きている。
場所
14.13°N 38.72°E · エチオピア
関わった人(1)
エザナ王?–AD360年頃 · 当人本文
紀元1世紀から7世紀ごろまで、いまのエチオピア北部からエリトリアにかけての高原に、アクスム王国が栄えた(アクスム王国)。紅海に面した港アドゥリスを通じて、ローマ帝国の支配するエジプトや、アラビア半島、インドと交易し、象牙や金、香料を輸出して富を築いた(アクスムの紅海交易)。3世紀には、サハラより南のアフリカで初めて自前の金貨を発行している。3世紀の宗教家マニは、アクスムを、ローマ、ペルシア、中国と並ぶ世界の四大王国の一つに数えたと伝えられる。都アクスムには、一枚岩を刻んだ高さ20メートルを超える石柱がいくつも立てられた。
4世紀のはじめ、アクスムの王たちは、天空や大地の神々、そして軍神とされるマフレムを祀っていた。この国にキリスト教をもたらしたのは、思いがけない出来事だったと、4世紀末のローマの教会史家ルフィヌスは書いている。地中海東岸のティルスから来たフルメンティウスとアエデシウスという二人の少年が、師に連れられて紅海を船で旅していた。船が寄った港で、乗組員たちは土地の人びとに殺されたが、少年二人だけは命を助けられ、アクスムの王のもとへ連れていかれた。

二人は王に気に入られ、アエデシウスは酒を注ぐ役に、フルメンティウスは書記と財務の役に取り立てられた。王が亡くなると、王妃は二人に、幼い王子が成長するまで国を治めるのを助けてほしいと頼んだ。フルメンティウスは宮廷で重きをなし、国に来ていたローマの商人たちのキリスト教徒の集まりを支え、礼拝の場を設けた。その幼い王子が、のちのエザナ王である。
王子が成人すると、フルメンティウスはエジプトのアレクサンドリアへ行き、司教アタナシウスに、アクスムに司教を送ってほしいと願い出た。アタナシウスは、それにふさわしいのはあなた自身だと答え、フルメンティウスを司教に任じてアクスムへ送り返した。エチオピアの教会は、彼を「平和の父」を意味するアバ・サラマの名で、最初の司教として敬っている。こうして、エチオピアの教会はアレクサンドリアの教会と結ばれ、その司教を長く受け入れることになった。
エザナ王の改宗は、伝説だけでなく、王自身が残したものからも確かめられる。治世の前半に作られた貨幣には、それまでの王たちと同じく、三日月と円盤の紋が刻まれていた。ところが後半の貨幣では、それが十字に置き換わっている。王が戦勝を記した石碑の文も、初めは軍神マフレムに捧げられていたのが、やがて「天の主」をたたえるものになり、ギリシア語の碑文では父と子と聖霊の名が記されるようになる。王の改宗は、330年代から340年代ごろのことと考えられている。ローマ帝国でキリスト教が公認され(ミラノ勅令)、ニケーア公会議が開かれてから、まもない時期である。

ただ、王が改宗しても、国じゅうの人びとがすぐにキリスト教徒になったわけではない。信仰が高原の村々に広く根づいていくのは、5世紀の後半に、地中海世界から「九聖人」と呼ばれる修道士たちが来て各地に修道院を開き、聖書を土地の古い言葉ゲエズ語に訳してからだとされる。
7世紀にイスラームが興ると、アクスムとの関係は特別な形で始まった。預言者ムハンマドの信徒の一部は、メッカでの迫害を逃れて、紅海の対岸のアクスム王のもとに身を寄せ、王はこれを保護したと伝えられる。しかしその後、紅海の交易がイスラームの勢力に握られると、アクスムは衰え、王国の中心は高原の奥へ移っていった。周りをイスラームの国々に囲まれながら、エチオピアのキリスト教は高原の中で独自の道を歩み、12世紀から13世紀には、岩を掘り抜いて造った教会群が生まれた(ラリベラの岩窟教会)。

エチオピアの教会は、旧約聖書の伝統を色濃く残していることでも知られる。土曜と日曜の両方を安息の日とし、豚肉などを食べることを禁じ、男子に割礼を行う。エチオピアの王家は、古代イスラエルのソロモン王とシバの女王の息子の子孫だと称し、そのとき古代イスラエルの契約の箱がエチオピアへ運ばれたと語り伝えてきた。その箱はいまもアクスムの教会に納められているとされるが、選ばれた一人の修道士のほかは、誰も見ることを許されていない。
1700年近くを経たいまも、エチオピア正教会は数千万人の信徒を持ち、アフリカで最も古いキリスト教の伝統の一つとして生き続けている。