できごと

マサダの陥落

Siege of Masada
AD73年
重要度 3
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD73年の版図を描いています(27勢力)。

概要

ローマ軍が数か月かけて土の斜道を築いて岩山の砦に達したとき、籠城していた者はほぼ全員死んでいた。ヨセフスは集団自決と書き、考古学は遺体を数十体しか出していない。

場所

マサダ
31.32°N 35.35°E · イスラエル

本文

マサダは死海の西岸に立つ岩山で、頂は南北およそ600メートルの平らな台地になっている。周りは切り立った崖で、東側の谷底から400メートル近い高さがある。紀元前1世紀、ヘロデ大王がここを避難所として固め、台地を城壁で囲み、崖の縁に段々に張り出した宮殿と、雨水をためる巨大な貯水槽、穀物や武器の倉を造った。王位が揺らいだときに逃げ込むための砦だった。

ヘロデの死後、ユダヤはローマの直接の支配下に入り、紀元66年に大きな反乱が起きる。その年、反乱の最も過激な一派で、短剣を隠し持って親ローマの者を暗殺したことから「シカリ派(短剣の者)」と呼ばれた人々が、マサダのローマ守備隊を襲って砦を奪った。指導者はエルアザル・ベン・ヤイル。70年にエルサレムが落ち、神殿が焼かれたあとも(エルサレム神殿の破壊)、彼らは家族を連れてこの岩山に籠もり続けた。ヘロデの倉には、何年も食べられるだけの蓄えが残っていたという。

エルサレム神殿の破壊に関わる図版:(Venice) La distruzione del tempio di Gerusalemme -Francesco Hayez - gallerie Accademia Venice
エルサレム神殿の破壊Wikimedia Commons Didier Descouens · Public domain

ローマが最後の拠点の始末に来たのは、エルサレム陥落の3年ほどあとである。ユダヤ総督フラウィウス・シルウァが第10軍団を率い、補助兵と、水や食料を運ぶ大勢のユダヤ人捕虜を連れてきた。まず岩山の周りに8つの陣営を置き、それらを長さ4キロほどの石の壁でつないで、誰も出入りできないようにした。この陣営と壁の跡は乾いた土地のおかげでよく残り、いまも上空から輪郭が見える。

次に西側の崖に土の斜道を築いた。西側には頂より少し低い岩の張り出しがあり、そこに土と石と木材を積み上げて、台地の縁まで坂を延ばした。坂の上に鉄で覆った攻城塔を押し上げ、破城槌で城壁を打った。籠城側は内側に木と土で二重の壁を作って衝撃を吸わせたが、ローマ兵が火を放つと、風向きが変わって木の壁が燃え落ちた。ローマ軍はその夜は攻め込まず、翌朝に突入することにした。包囲がどれほど続いたかは記録が無く、数か月とみる見方が多い。

マサダ攻囲戦、ローマ軍の築いた土塁(1727年の版画)
マサダ攻囲戦、ローマ軍の築いた土塁(1727年の版画)Wikimedia Commons Matthijs Pool · Public domain

陥落の場面を伝えるのは、ユダヤ人の歴史家ヨセフスの『ユダヤ戦記』だけだ。それによると、エルアザルはその夜、奴隷として生きるより自由なまま死ぬべきだと仲間に説いた。男たちはそれぞれ自分の妻と子を殺し、次にくじで10人を選んで残りを殺させ、その10人からさらにくじで1人を選び、最後の1人が火を放って自害した。死者は960人。貯水槽に隠れていた女2人と子ども5人だけが生き残り、ローマ兵に事情を語ったという。倉は焼かれたが、食料の一部はわざと残され、飢えて降ったのではないことを示した、とも書かれている。

ただしヨセフスはその場にいなかった。彼自身、かつては反乱軍の指揮官としてガリラヤで戦い、包囲された洞窟で仲間とくじを引いて自決しようとして、最後に生き残ってローマに降った人物である。エルアザルの長い演説は、ヨセフスが書いたものとみるのが普通だ。

死海(マサダ付近)、1873年の挿絵
死海(マサダ付近)、1873年の挿絵Wikimedia Commons Louis Figuier / Jules Férat / Fortuné Méaulle · CC BY 2.0

1963年から65年にかけて、考古学者イガエル・ヤディンが大規模に発掘した。宮殿や浴場、会堂、巻物の断片が出て、名前を書いた陶片も11枚見つかった。その一枚には「ベン・ヤイル」とあり、ヤディンはこれをくじに使った陶片と考えた。一方、遺骨は崖下の洞窟で二十数体、宮殿の一角で3体ほどが見つかったにすぎず、960人には遠く及ばない。洞窟の遺骨が本当に籠城者のものかにも疑問が出されている。集団自決が実際にどのように行われたのか、そもそもヨセフスの描くとおりだったのかは、いまも議論が分かれる。陥落の年も、シルウァの経歴を記した碑文から74年とする説がある。

この話は、近代のユダヤ人にとって特別な意味を持つようになった。20世紀のシオニズム運動のなかで、マサダは最後まで屈しなかった者たちの象徴とされ、イスラエル国防軍の機甲部隊は長くここで新兵の宣誓式を行い、「マサダは二度と落ちない」と唱えた。その一方で、集団自決を英雄として讃えることへの疑問も語られてきた。反乱から60年ほどあと、ユダヤ人は再びローマに背いて敗れ(バル・コクバの乱)、エルサレムに住むことも禁じられた。マサダの話はその後、ユダヤ人自身の伝統のなかではあまり語られず、ヨセフスの本を読むキリスト教世界のほうでよく知られていた。それがイスラエルの建国の前後に、新しい国の物語として掘り起こされたのである。2001年に世界遺産に登録され、いまはロープウェイで頂に登れる。

同じ時代のできごと

『エリュトラー海案内記』AD60年頃硬貨で出る聖水AD1世紀ブーディカの反乱AD60年ローマ大火AD64年7月仏教が中国へAD1世紀エルサレム神殿の破壊AD70年王充『論衡』AD80年頃ヴェスヴィオ火山の噴火79年8月24日(近年は10月説が有力)
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