95か条の論題

概要
ルターの問いかけが印刷術に乗って広がり、西方教会が割れた。宗教改革の始まり。
場所
51.87°N 12.64°E · ドイツ
関わった人(1)
マルティン・ルターAD1483年11月10日–AD1546年2月18日 · 当人本文
1517年10月31日、ドイツ東部の小さな大学町ヴィッテンベルクの神学教授マルティン・ルターが、贖宥状(免罪符)について論じ合うための95の命題を書き、地域の教会の頂点に立つマインツ大司教に手紙を添えて送った。この「95か条の論題」が印刷術に乗って瞬く間にドイツ中へ広まり、やがて西方の教会を二つに割る宗教改革の始まりになった。
贖宥状とは、罪の償いを免除する証書である。当時の教会の教えでは、罪は告解によって赦されても、その償いの罰は残り、この世か、死後に煉獄で果たさなければならない。教会は、祈りや巡礼や寄進と引き換えに、その罰を軽くすることを認めてきた。やがてそれが金銭で買える証書になり、死んだ家族の魂の煉獄での苦しみまで縮められると説かれるようになった。

1515年、教皇レオ10世は、ローマのサン・ピエトロ大聖堂を建て替える費用を集めるため、大がかりな贖宥状の販売を認めた。ドイツでその販売を任されたマインツ大司教アルブレヒトには、別の事情もあった。若くして複数の司教の地位を手に入れるため、教皇庁に巨額の金を納めており、その金を南ドイツの富豪フッガー家から借りていた。贖宥状の売上の半分を、その返済に充てるという取り決めになっていたのである。販売に当たった説教師テッツェルは、金が箱の中で鳴ると魂が煉獄から飛び出す、という文句で人々をあおったと伝えられるが、本人がそう言ったかは確かではない。ヴィッテンベルクを治めるザクセン選帝侯は自分の領地での販売を許さなかったが、人々は境を越えて買いに出かけた。
ルターは1483年、鉱山業を営む家に生まれた。大学で法学を学んでいた21歳の夏、激しい雷雨の中で死の恐怖に襲われ、聖アンナに、助けてくださったら修道士になります、と叫んだ。そして父の反対を押し切って修道院に入る。修道士としてのルターは、どれほど祈り、断食し、告解を重ねても、自分が神に赦されているという確信を持てずに苦しんだ。やがて聖書を読み込むうちに、人は自分の行いによってではなく、神の恵みを信じることによってのみ正しい者とされる、という考えにたどり着く。それならば、金で買う証書が救いを左右するはずがない。

論題そのものは、贖宥状の販売に対する神学上の疑問を、ラテン語で並べたものだった。第1条は、キリストが「悔い改めよ」と言ったとき、信じる者の生涯全体が悔い改めであることを望んだのだ、と述べる。後半には、民衆の口を借りた鋭い問いも並ぶ。教皇は今日、どんな大富豪よりも富んでいるのに、なぜ自分の金ではなく、貧しい信者の金でサン・ピエトロ大聖堂を建てるのか、と。それでも全体としては、大学での討論を申し出る文章であり、教皇の権威そのものを否定するものではなかった。教会を割るつもりの文章ではない。
ルターがヴィッテンベルクの城の教会の扉に論題を打ち付けた、という場面はよく知られている。だが、そう書いた最も古い記録は、ルターの死後に同僚のメランヒトンが書いたもので、メランヒトンはその日ヴィッテンベルクにいなかった。教会の扉は大学の掲示板としても使われていたから、貼り出されたこと自体はありうるが、劇的な場面は後の伝承である可能性が高い。確かなのは、同じ日に大司教へ手紙で送っていることのほうだ。その手紙は今も残っている。
広まり方が、前とは違った。12月にはライプツィヒ、ニュルンベルク、バーゼルで論題が印刷され、まもなくドイツ語に訳されて各地へ回った。ルター自身、2週間でドイツ中に広まったと後に振り返っている。グーテンベルクの活版印刷から60年あまり、印刷所はドイツの多くの町にあり、安い小冊子を大量に刷る仕組みができていた。ルターはその後もドイツ語で短い文章を次々に書き、彼の著作は1520年代の前半に、ドイツで刷られた本のかなりの部分を占めるほど売れた。100年前、教会を批判したボヘミアのフスは火刑に処され、その声は一地方にとどまった。ルターの声は、印刷機によって、止めようのない速さで広がった。

ドイツの不満も、背中を押した。ドイツの金が贖宥状や教会の税としてイタリアへ流れていく、という憤りは広く共有されていた。神学の議論は、たちまち政治の重みを帯びた。ルターを守ったザクセン選帝侯フリードリヒのように、教皇や皇帝の干渉を嫌う領邦の君主たちにとって、ルターは手放せない存在になっていく。
教会との対立は、数年で後戻りできなくなった。1519年の討論で、ルターは教会会議でさえ誤ることがあると認め、フスの主張にも正しいものがあったと言った。1520年には教皇の権威を否定する文書を立て続けに出し、自分を破門すると脅す教皇の文書を、学生たちの前で火に投じた。翌1521年に破門され、4月にはヴォルムスの帝国議会に呼び出されて、若い皇帝カール5世の前で自説の撤回を求められた。ルターは、聖書と明白な理性によって誤りを示されないかぎり撤回しない、良心に反することはできない、と答えた。「私はここに立つ」という有名な言葉は、のちの印刷版で付け加えられた可能性があるとされる。

皇帝はルターを帝国から追放したが、選帝侯は帰り道のルターを、手の者に襲わせて連れ去るという芝居を打ち、ヴァルトブルク城に匿った。ルターはそこで「騎士ゲオルク」と名乗り、ギリシア語の原典から新約聖書をわずか11週間ほどでドイツ語に訳した(ルターのドイツ語訳聖書)。家の中の母親、路地の子どもたち、市場の人々がふだん話している言葉で訳そうとしたその訳文は、のちの書き言葉としてのドイツ語に大きな影響を与えた。
運動は、ルターの手を離れて広がっていった。1525年には、農民たちが彼の教えを掲げて領主に反乱を起こし、ルターはむしろ領主の側に立って鎮圧を求めた。スイスではツヴィングリが、続いてジュネーヴでカルヴァンが別の改革を進めた(カルヴァンのジュネーヴ)。カトリック教会の側も、イエズス会の創立などを通じて立て直しを図る。1555年のアウクスブルクの和議で、ドイツの領邦の君主は自分の領地の宗派を選べることになったが、宗派の対立はやがて三十年戦争へと至る。
ルターの晩年には、ユダヤ人を激しく攻撃する文書を書いたという暗い面もあり、その影響は後世にまで及んだ。それでも、一人の神学教授がラテン語で書いた討論の申し出が、印刷と政治の力に押されてヨーロッパの宗教地図を塗り替えたことは変わらない。10月31日は、いまも宗教改革の記念日として祝われている。