サン・バルテルミの虐殺

概要
王妹とプロテスタントの王子の結婚式に集まったユグノーの貴族が、夜明けの鐘で殺された。パリで3000人、地方で数万。教皇は感謝のミサをし、メダルを打った。国王が自分の臣民を殺した、と歴史は書く。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
本文
16世紀半ばのフランスでは、ジュネーヴのジャン・カルヴァンの教えが急速に広がっていた(カルヴァンのジュネーヴ)。フランスの改革派プロテスタントは「ユグノー」と呼ばれ、職人や商人だけでなく、地方の大貴族の中にも信徒が増えた。1562年、カトリックの大貴族ギーズ公の兵がヴァシーで礼拝中のユグノーを襲ったのをきっかけに、内乱が始まる。宗教の対立に、王家の外戚の座をめぐる大貴族どうしの権力争いが重なり、和平が結ばれては破られる戦いが10年近く続いた。1570年のサン・ジェルマンの和議で、ユグノーはいくつかの都市での礼拝の自由と、安全保障のための要塞都市を認められた。
その和解の仕上げとして計画されたのが、王家の結婚だった。国王シャルル9世の妹マルグリット・ド・ヴァロワと、ユグノーの指導者の家に生まれたナヴァル王アンリ(のちのアンリ4世)を結ばせるのである。仕掛けたのは、王の母で長く実権を握ってきたカトリーヌ・ド・メディシスだった。1572年8月18日、パリのノートルダム大聖堂の前で婚礼が挙げられた。花婿は18歳、王は22歳。カトリックの都パリに、祝いのために数千人のユグノーの貴族とその家来が集まっていた。パリの民衆は、彼らを敵意の目で見ていた。説教師たちは異端との結婚を神への冒涜だと説き、物価の高騰と凶作が人々の苛立ちをつのらせていた。

ユグノーの筆頭であるコリニー提督は、和議ののち宮廷に迎えられ、若い王の信頼を得ていた。コリニーは、スペインの支配に反乱を起こしていたネーデルラントに援軍を送り、カトリックとユグノーが力を合わせてスペインと戦うことで国内をまとめようと説いた。だが強大なスペインとの戦争を、カトリーヌは恐れた。カトリックの急先鋒ギーズ公アンリは、10年近く前に父を暗殺させたのはコリニーだと信じ、仇として憎んでいた。
婚礼から4日後の8月22日、ルーヴル宮から宿舎へ歩いて戻るコリニーを、ある家の窓から火縄銃の弾が襲った。かがんだ瞬間だったため、弾は右手の指を砕き、左腕を傷つけるにとどまった。撃ったのはギーズ家にゆかりのある男とされるが、誰が命じたのかは、ギーズ家ともカトリーヌとも、スペインとも言われ、いまも確定していない。王は見舞いに駆けつけ、犯人を必ず罰すると約束した。ユグノーたちは憤激し、報復を口にした。

翌23日の夜、ルーヴル宮で、カトリーヌ、王の弟アンジュー公(のちのアンリ3世)、側近たちが王を囲んだ。ユグノーが復讐のために反乱を起こそうとしている、先手を打たねば王家が危ない、と彼らは迫った。長い説得の末、王はついに折れ、どうせ殺すなら一人残らず殺せ、あとで自分を責める者が残らないように、と叫んだと伝えられる。もっともこの言葉は後年の記録によるもので、本当に口にしたかどうかは分からない。当初の狙いは、コリニーをはじめとするユグノーの指導者数十人を除くことだったと考える歴史家が多い。
8月24日、聖バルテルミ(バルトロマイ)の祝日の未明、ルーヴルの向かいのサン・ジェルマン・ロクセロワ教会の鐘が鳴ったのを合図に、殺戮が始まった。ギーズ公は兵を率いてコリニーの宿舎へ向かった。寝台から起き上がった提督を、ギーズ家の家来でベームと呼ばれた男が剣で刺し、遺体を窓から中庭に投げ落とした。下で待っていたギーズ公は、顔の血を拭って本人であることを確かめ、遺体を足蹴にしたという。首は切り取られ、胴体は群衆に引きずり回されて、セーヌ川に投げ込まれたのち、パリの外れのモンフォコンの絞首台に吊るされた。

ルーヴル宮の中でも、ナヴァル王の家臣たちが寝所から引き出され、中庭で次々に殺された。ナヴァル王アンリと、ユグノーのもう一人の旗頭である若いコンデ公は、王の前に呼び出され、カトリックに改宗するか死ぬかを迫られて、改宗を選んだ。
計画された「指導者の排除」は、すぐに歯止めを失った。白い腕章と白い十字を付けた市の民兵と群衆が、王の命令だとして街中のユグノーの家を襲った。商人も職人も、女も子どもも殺された。財産の略奪や、借金を帳消しにするための殺人も混じった。著名な人文学者ペトルス・ラムスも、自宅から引きずり出されて殺された。殺戮は数日続き、セーヌ川には遺体が浮かんだ。パリだけで2000人から3000人が殺されたと推定されている。王は26日に高等法院に出向き、ユグノーの陰謀を防ぐために自分が命じたのだと宣言した。

知らせが届くと、虐殺は地方へ広がった。オルレアン、ルーアン、リヨン、ボルドー、トゥールーズなど十数の都市で、8月の末から10月にかけてユグノーが殺された。フランス全体の犠牲者は、5000人ほどとする推計から3万人とする推計まで幅があり、1万人前後とする研究者が多い。
ヨーロッパの反応は、信仰によってまっぷたつに割れた。ローマの教皇グレゴリウス13世は感謝の祈り(テ・デウム)を捧げさせ、「ユグノーの殺戮」の文字を刻んだ記念のメダルを打たせ、画家ヴァザーリにヴァチカンの「王の間」の壁画として事件を描かせた。その壁画はいまも残っている。スペインのフェリペ2世は、知らせを聞いて生涯でただ一度笑ったと伝えられる。一方、イングランドのエリザベス1世は、フランス大使を喪服姿の廷臣たちとともに迎えたという。遠くモスクワのイヴァン4世(雷帝)でさえ、書簡でフランス王の所業を非難した。
虐殺はユグノーを滅ぼさなかった。生き残った人々は南西部の拠点に立てこもって抵抗を続け、王に忠誠を尽くす義務は暴君には及ばないとする抵抗権の理論を書き著した。シャルル9世は1574年、結核で23歳で死んだ。死の床で血の幻にうなされたという話は、のちのプロテスタントの側の記録に多く見える。ナヴァル王アンリは4年近く宮廷に軟禁されたのち、1576年に脱走してプロテスタントに戻った。1589年に王家の血筋が絶えると彼がアンリ4世として即位し、1593年に再びカトリックに改宗して、翌年パリに入った。そして1598年、ナントの勅令によってユグノーに信仰の自由を認め、内乱に終止符を打った。

サン・バルテルミの虐殺は、国家が自らの臣民を宗教の名のもとに殺した事件として、ヨーロッパの記憶に深く刻まれた。のちに寛容を説いた思想家たちは、狂信の行き着く先としてこの日を繰り返し引いた。1997年、パリを訪れた教皇ヨハネ・パウロ2世は、虐殺の記念日の前夜、キリスト教徒がキリスト教徒に対して行った行為への悔恨を口にした。425年後のことだった。