できごと

パウロの伝道旅行

Paul's missionary journeys
AD47年
重要度 5
古シベリアの狩猟採集民ローマフィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民西アフリカの穀作農民パルティアサーミサカ族の王国スーレーン家の王国メロエヒムヤル王国Plain-Pottery cultureBrushed Pottery cultureマスカットアルメニアBell-shaped burials cultureナバテア王国ダキアMilograd cultureEastern Masurian cultureハドラマウトブレンミュエスBoihaenumオドリュサイ王国アクスム王国Pomeranian cultureAD47年エフェソス
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概要

ユダヤ教の枠を越えて、割礼を求めずに異邦人へ説いた。地中海を三度回り、手紙を書いた。その手紙が新約聖書の最も古い部分になる。

場所

エフェソス
37.94°N 27.34°E · トルコ・イズミル県

関わった人(1)

パウロAD5年頃–AD65年頃 · 伝道

本文

イエスの死から十数年、その教えを信じる人々は、まだユダヤ教の中の小さな一派にすぎなかった。それを地中海世界の宗教に変えた最大の立役者が、イエスに一度も会ったことのない男、パウロである。彼は何年もかけて船と徒歩で地中海の東半分を回り、各地に信徒の集まりを作り、その集まりに手紙を書き送った。その手紙が、いま新約聖書の最も古い部分として残っている。

パウロのもとの名はサウロという。小アジアの南東、キリキア地方の港町タルソスに生まれた、ギリシア語を話すユダヤ人である。新約聖書の『使徒言行録』によれば、生まれながらにローマの市民権を持ち、エルサレムで律法の教師ガマリエルに学んだ厳格なファリサイ派だった。テントを作る手仕事で生計を立てていたとも記されている。

アナニアにより視力を取り戻すパウロ
アナニアにより視力を取り戻すパウロWikimedia Commons Pietro da Cortona · Public domain

彼は、イエスを救い主と信じる人々を激しく迫害していた。エルサレムで信徒のステファノが石で打ち殺されたとき、殺した者たちの上着の番をしていたと『使徒言行録』は書く(ステファノの殉教)。その後、信徒を捕らえるために北のダマスコ(ダマスクス)へ向かう途中で、天からの光に打たれて地に倒れ、「なぜ、わたしを迫害するのか」という声を聞いた。三日のあいだ目が見えず、飲み食いもしなかった。やがて目から鱗のようなものが落ちて見えるようになり、洗礼を受けた。日本語の「目から鱗が落ちる」はこの場面に由来する。

この劇的な回心の場面は『使徒言行録』が伝えるもので、パウロ自身の手紙では、神が御子を自分に示した、と短く触れられているだけである。いずれにせよ、迫害者は一転して、最も熱心な伝道者になった。

ジャン・フーケによる絵、中央にパウロ
ジャン・フーケによる絵、中央にパウロWikimedia Commons Jean Fouquet · Public domain

彼が向かった先は、ユダヤ人ではない人々、つまり異邦人だった。ここに大きな問題があった。イエスの最初の弟子たちはみなユダヤ人で、律法を守って暮らしていた。異邦人が仲間に加わるなら、男は割礼を受け、食べ物の決まりを守るべきなのか。もしそれを求めれば、大人の男に割礼を求めることになり、異邦人はほとんど入ってこない。

パウロの答えははっきりしていた。人が救われるのは律法を守ることによってではなく、キリストを信じることによる。だから異邦人に割礼は要らない。紀元48年か49年頃とされるエルサレムでの話し合いで、イエスの弟子ペトロや、イエスの兄弟ヤコブらはこの考えを認めた。『使徒言行録』によれば、異邦人には偶像に供えた肉や血を避けるなど、最低限の決まりだけが求められた。もっとも、その後もアンティオキアで、異邦人との食事をめぐってパウロがペトロを面と向かって非難したことが、パウロ自身の手紙に書かれている。対立はすぐには消えなかった。

ヴァランタン・ド・ブーローニュもしくはニコラ・トゥルニエによる1620年ごろの作。執筆中のパウロ
ヴァランタン・ド・ブーローニュもしくはニコラ・トゥルニエによる1620年ごろの作。執筆中のパウロWikimedia Commons Valentin de Boulogne · Public domain

伝道の旅は、ふつう三度に分けて数えられる。これは『使徒言行録』の記述をもとにした後の整理である。最初の旅は40年代の後半で、仲間のバルナバとともにキプロス島に渡り、小アジアの内陸の町々を回った。リストラでは石を投げつけられ、死んだと思われて町の外に引きずり出されたという。

二度目の旅では、海を越えてヨーロッパに入った。マケドニアのフィリピで最初の信徒の集まりを作り、牢に入れられた。アテネでは、アレオパゴスの丘で哲学者たちを前に「知られざる神に」と刻まれた祭壇を引き合いに出して語ったが、死者の復活の話になると嘲笑されたと伝えられる。続いて商業都市コリントに1年半とどまった。このとき、ローマの総督ガリオンの前に訴え出られたことが記されており、デルフォイで見つかった碑文からガリオンの在任が51年から52年頃と分かる。これがパウロの生涯の年代を決める数少ない手がかりになっている。

デューラー『4人の使徒』(部分)。マルコ(左)とパウロ(右)
デューラー『4人の使徒』(部分)。マルコ(左)とパウロ(右)Wikimedia Commons Albrecht Dürer · Public domain

三度目の旅では、小アジア西岸の大都市エフェソスに2年あまり住んだ。ここは女神アルテミスの大神殿で知られ、神殿の模型を作って売る銀細工人たちが、商売の邪魔になると騒ぎを起こした。群衆が劇場に集まり、2時間ものあいだ「偉大なるかな、エフェソス人のアルテミス」と叫び続けたと『使徒言行録』は描いている。

手紙は、この旅のあいだに、問題が起きるたびに書かれた。教会の中で派閥争いが起きた、誰かが別の教えを持ち込んだ、信徒が死者の復活を疑っている。そうした具体的な悩みに、パウロは怒り、なだめ、論じて答えた。最も古いのは50年頃のテサロニケの信徒への手紙一とされ、福音書のどれよりも早い。研究者の多くは、パウロの名で伝わる13の手紙のうち、本人が書いたのは7通ほどで、残りは後の弟子たちがパウロの名で書いたものと見ている。愛について述べた「愛は忍耐強い。愛は情け深い」の一節も、コリントの教会に宛てた手紙の中にある。

エフェソスの聖パウロのフレスコ画
エフェソスの聖パウロのフレスコ画Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

旅の終わりに、パウロは各地で集めた献金を届けるためにエルサレムに戻った。そこで神殿に異邦人を連れ込んだと疑われて騒ぎになり、ローマの兵に保護される形で捕らえられた。地中海沿岸のカイサリアで2年間拘留されたのち、ローマ市民として皇帝に上訴し、ローマへ護送された。途中で嵐に遭って船がマルタ島で難破したことまで、『使徒言行録』は細かく描いている。

ローマでは2年間、見張りつきの家で暮らしながら人々に教えた。『使徒言行録』の記述はそこで終わる。その後のことは伝承によるしかない。ネロの時代、60年代の半ばに、ローマで斬首されたと伝えられる。64年のローマ大火の後、ネロがキリスト教徒を迫害したことは、ローマの歴史家タキトゥスも書いている。

ローマ大火に関わる図版:Robert, Hubert - Incendie à Rome -
ローマ大火Wikimedia Commons Hubert Robert · Public domain

パウロが死んで間もなく、70年にはエルサレムの神殿が破壊された(エルサレム神殿の破壊)。エルサレムにいたユダヤ人の信徒の共同体は散り、キリスト教の重心は、パウロが種をまいた地中海の都市の異邦人の教会へ移っていった。彼の手紙は回し読みされ、写され、やがて聖典の一部になった。信仰によって救われるという彼の教えは、のちの宗教改革でマルティン・ルターが掘り起こし、西洋の思想に繰り返し影響を与えることになる。キリスト教を作ったのはパウロだ、と言われることがあるのは、そのためである。

同じ時代のできごと

ステファノの殉教AD34年頃イエスの処刑AD30年頃セイヤヌスの失脚AD31年10月18日徴姉妹の蜂起AD40年金官伽耶の建国(伝承)AD42年(伝承)クラウディウスのブリタニア征服AD43年匈奴の南北分裂AD48年ガルムAD50年頃
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