大モラヴィア国

概要
西スラヴ人の最初の国。フランクとビザンツの間で揺れ、ビザンツからキュリロスとメトディオスを招いた。マジャール人に潰されて消える。
場所
49.20°N 17.20°E · チェコ東部・スロヴァキア西部
関わった人(1)
メトディオスAD815年–AD885年4月6日 · 大司教本文
9世紀の初め、ドナウ川の北、いまのチェコ東部のモラヴァ川の流域には、スラヴ人の首長たちが砦を構えて暮らしていた。西にはカール大帝が築いたフランク王国があり、その東の境を守るバイエルンの伯や司教たちが、宣教師を送り込んでいた。南東では、ちょうどアヴァール人の支配がフランクに打ち砕かれたあとで、空白が生まれていた。
833年ごろ、モラヴィアの首長モイミールが、東の隣のニトラを治めていたプリビナを追い出し、二つの地域を一つにまとめた。これが、のちに大モラヴィアと呼ばれる国の始まりとされる。西スラヴ人が作った国として、記録に残る最初のものになる。「大モラヴィア」という呼び名は、10世紀のビザンツ皇帝コンスタンティノス7世が書いた書物に出てくるもので、当時の人々がそう名乗っていたかは分からない。
モイミールの後を継いだのは、甥のロスチスラフだった。846年、東フランク王ルートヴィヒ(ドイツ人王。ヴェルダン条約で王国の東を得た)が、彼を君主に据えた。だがロスチスラフはやがてフランクから離れようとする。フランクの宣教師たちはラテン語で祈り、バイエルンの司教の下で教会を組み立てていた。教会が外の国の司教に属するかぎり、国も外に縛られる。

862年、ロスチスラフはコンスタンティノープルの皇帝ミカエル3世に使者を送り、自分たちの言葉で信仰を説ける師を求めた。皇帝が送り出したのが、テッサロニケ生まれの兄弟、コンスタンティノス(のちの修道名キュリロス)とメトディオスだった。テッサロニケの周りにはスラヴ人が多く住み、兄弟はその言葉を知っていた。863年に着いた兄弟は、スラヴ語の音を書き表すための文字、グラゴル文字を用意し、福音書や祈りの言葉を訳して、弟子を育てはじめた。
フランクの聖職者たちは強く反発した。神を讃える言葉は、ヘブライ語、ギリシア語、ラテン語の三つに限られる、と彼らは主張した。兄弟はローマに赴き、教皇ハドリアヌス2世からスラヴ語の典礼を認められる。キュリロスは869年にローマで亡くなり、メトディオスはパンノニアとモラヴィアを受け持つ大司教に任じられて戻った。

その間に、モラヴィアの内側で政変が起きていた。870年、ロスチスラフの甥スヴァトプルクが叔父を捕らえてフランクに引き渡し、ロスチスラフは目をつぶされて修道院に送られた。メトディオスもバイエルンの司教たちに捕らえられ、2年半にわたって閉じこめられた。教皇の働きかけで解放されたが、スヴァトプルクはラテン語の聖職者に好意的で、メトディオスとの関係は冷えていった。
それでもスヴァトプルクの時代に、国は最も広くなった。ボヘミア、いまのスロバキア、ポーランド南部の一部、パンノニアの一部にまで力が及んだとされる。ミクルチツェなどの遺跡からは、石造りの教会の跡がいくつも見つかり、宝飾品や武具の質の高さも分かっている。
885年にメトディオスが亡くなると、教皇はスラヴ語の典礼を禁じた。弟子たちは捕らえられ、売られ、国を追われた。逃れた弟子の一部はブルガリアに迎えられ(ブルガリアの改宗)、そこでスラヴ語の文学と、グラゴル文字をもとにしたキリル文字が育っていく。

894年にスヴァトプルクが死ぬと、息子たちの争いが始まった。そこへ東から騎馬のマジャール人が入ってきて、カルパチア盆地に住みつく(マジャール人のパンノニア定住)。907年にはバイエルンの軍もマジャール人に大敗し、大モラヴィアの名はこのころを境に記録から消える。国は100年に満たなかった。
国は消えたが、残したものは大きい。スラヴ人が自分たちの言葉で書き、祈る道がここで開かれ、それがブルガリアを経て、セルビア、そしてキエフのルーシへと伝わった。いまロシア語やブルガリア語を書く文字の源は、モラヴァ川のほとりで始まった試みにある。マジャール人の西への進出が止まるのは、半世紀後のレヒフェルトの戦いになる。