ベーダ
概要
7歳で修道院に預けられ、60年、ジャロウで暮らした。『教会史』。「時の計算について」。復活祭の日を計算するために、暦と天文を書いた。「尊者」。ダンテが天国に置いた唯一のイングランド人。
関わったできごと(1)
ベーダ『イングランド教会史』AD731年 · 著者本文
ベーダは672年か673年、イングランド北東部、ノーサンブリア王国のウェアマスの近くで生まれた。家族のことは何も分かっていない。分かっているのは、7歳のとき親族によって修道院に預けられたことである。ベーダ自身が『イングランド教会史』の結びにそう書いている。

彼を受け入れたのは、ベネディクト・ビスコップが674年に建てたウェアマスの修道院だった。ビスコップはローマへ何度も旅をした人で、大陸から石工やガラス職人を呼び、膨大な書物を持ち帰った。682年には近くのジャロウに姉妹修道院が建てられ、ベーダはそこに移り、院長ケオルフリスのもとで育った。ウェアマスとジャロウの図書室は、当時のアルプス以北で最も充実したものの一つだったとされる。
686年ごろ、修道院を疫病が襲った。ケオルフリスの伝記によれば、聖歌を歌って祈りを続けられる者は、院長と一人の少年しか残らなかったという。その少年がベーダだったと考える研究者は多い。

ベーダは19歳で助祭に、30歳で司祭に叙階された。叙階したのは、のちに聖人とされるヨークの司教ジョン・オブ・ベヴァリーである。それからの生涯を、彼はほとんどジャロウで過ごした。修道院の規則を守り、聖歌を歌い、学び、教え、書くことを常に喜びとしてきた、と自ら書いている。遠くへ旅した記録は、リンディスファーンとヨークへの訪問くらいしかない。
それでいて、ベーダの書いたものは驚くほど幅が広い。聖書の注解が最も多く、ほかに文法、韻律、自然学、聖人伝、殉教者の暦、詩がある。著作は自ら挙げた目録だけで40を超える。とくに後世に影響を与えたのが、時間と暦についての仕事である。当時の教会では、キリストの復活を祝う復活祭の日付をどう決めるかが大きな争点になっていた。復活祭は春分の後の満月の後の日曜日に祝う。月と太陽の運行を組み合わせなければならないため、計算はきわめて難しく、ブリテン島のケルト系の教会とローマ式の教会では日付が違っていた。ベーダは703年の『時について』、725年の『時の計算について』で、19年周期を用いた計算法をくわしく説明した。その中で、潮の満ち引きが月の動きと関係し、場所によって満潮の時刻がずれることも記している。

ベーダはまた、キリストの生誕から年を数える方法を広めた。6世紀にディオニュシウス・エクシグウスが復活祭の表のために考えたこの年の数え方を、ベーダは歴史を書くときの年代に用いた。『イングランド教会史』を通じて、この数え方はヨーロッパに広まっていく。私たちが今使っている西暦が定着するうえで、ベーダの果たした役割は大きい。
731年に完成した『イングランド教会史』(ベーダ『イングランド教会史』)は、5巻から成る。ローマ時代のブリテン島から始まり、アングロ・サクソン人の到来、グレゴリウス1世が送り出した修道士たちによるアウグスティヌスのケント布教、そしてノーサンブリアをはじめとする諸王国の改宗の歩みを、ベーダの生きた時代までたどる。ベーダは各地の修道院や司教に問い合わせて資料を集め、文書を引用し、誰から聞いた話かを記した。奇跡の話も多く含まれるが、出典を示して書くその姿勢は、近代の歴史家からも高く評価されている。この書の中には、ウィットビーの修道院で牛の世話をしていた無学なケドモンが、夢の中で神をたたえる歌を授けられ、英語で最初の宗教詩人になったという話も収められている。王の宴の席で、人の一生を、冬の夜に宴会場の窓から飛び込み、暖かい広間を一瞬で通り抜けて、また闇へ飛び去る雀にたとえた家臣の言葉も、この書によって伝えられた。

735年5月、ベーダは死の床にあった。弟子のカスバートが友人に宛てた手紙が、最期の様子を伝えている。ベーダは息が苦しくなっても弟子たちに教え続け、ヨハネによる福音書を英語に訳す作業を急いでいた。死の当日、筆記役の少年が、先生、あと一文が残っています、と言うと、ベーダは、では早く書きなさい、と答えた。しばらくして少年が、書き終わりました、と告げると、ベーダは、よく言った、終わった、と言い、自分がいつも祈っていた場所に向けて頭を支えてもらい、父と子と聖霊に栄光あれ、と唱えて息を引き取った。5月26日のことである。死を前にして英語で詠んだ5行の短い詩も伝わっている。
ベーダの遺骨は、11世紀の初め、ダラムの修道士によってジャロウから密かに持ち出され、ダラムで聖カスバートの棺と共に納められた。14世紀に大聖堂のガリラヤ礼拝堂に移され、宗教改革のさなかの1541年、その墓所の装飾は壊された。今もそこに墓がある。

ベーダは死後まもなく「尊者」と呼ばれるようになった。イタリアの詩人ダンテ・アリギエーリは『神曲』天国篇で、ベーダをセビリアのイシドルスらと並べて、太陽の天に輝く賢者の一人とした。1899年、教会博士に加えられている。一度もブリテン島を出ることなく、修道院の一室で、彼はイングランドの最初の歴史を書いた。