十字軍の呼びかけ

概要
教皇が聖地の回復を呼びかけた。以後200年、ヨーロッパと西アジアが繰り返しぶつかる。
場所
45.78°N 3.09°E · フランス
本文
1095年11月、フランス中部の町クレルモンで開かれた教会会議の終わり近く、教皇ウルバヌス2世は町の外の野原に集まった聖職者と騎士たちに向けて演説し、東方のキリスト教徒を助け、聖地エルサレムを取り戻すために武器を取れ、と呼びかけた。この呼びかけから、のちに「十字軍」と呼ばれる遠征が始まる。以後200年、ヨーロッパの人々と西アジアのイスラム世界は、繰り返し戦場で向き合うことになる。
きっかけは、東からの援軍の要請だった。1071年、東ローマ帝国(ビザンツ)の軍は、小アジア東部のマンジケルトで、トルコ系のセルジューク朝に大敗した(マンジケルトの戦い)。その後の混乱の中で、トルコ系の勢力が小アジアの大半に入りこみ、コンスタンティノープルの対岸に近いニカイアまでが彼らの拠点になった。1081年に即位した皇帝アレクシオス1世コムネノスは、帝国を立て直そうとしていたが、兵が足りなかった。1095年の春、皇帝の使節がイタリアのピアチェンツァで開かれた教会会議に現れ、西方の騎士を傭兵として送ってほしいと願い出た。

教皇ウルバヌス2世は、それを別のものに変えた。皇帝が求めたのは、自分の指揮のもとで戦う兵だった。教皇が呼びかけたのは、教皇の権威のもとに西方の騎士たちが自ら誓いを立てて東へ向かう、大きな遠征だった。目的地も、小アジアではなく、はるか先のエルサレムに定められた。
呼びかけの裏には、いくつかの動機が重なっていた。40年前の1054年、ローマとコンスタンティノープルの教会は互いを破門し合い、分裂していた(東西教会の分裂)。東を助けることで、ローマ教皇のもとに東の教会を再び近づけたいという願いがあった。西方の内部では、教皇と神聖ローマ皇帝が司教の任命権をめぐって激しく争っており(カノッサの屈辱)、皇帝の後押しする対立教皇がローマを押さえていた。キリスト教世界全体に号令をかけることは、教皇こそが西方の頂点に立つことを示す機会でもあった。

もう一つは、騎士たちの暴力をどうするかという問題だった。西ヨーロッパでは、城を構えた領主と騎士たちが私闘を繰り返し、農民や教会の財産が荒らされていた。教会は10世紀の末から、聖職者や農民を襲うことを禁じ(神の平和)、特定の日の戦いを禁じる運動を進めていた。ウルバヌス2世はフランスの貴族の家に生まれ、改革派の拠点であるクリュニー修道院で修行した人である。キリスト教徒どうしで殺し合う騎士たちの力を、外の敵へ向けることができれば、内の平和にもなる。
演説の記録は5種類あり、内容が食い違う。すべて出来事の後に、多くは数年たって、エルサレムが陥ちたことを知ってから書かれている。ある記録は、東方のキリスト教徒が受けている残虐な仕打ちを生々しく描き、別の記録は、ヨーロッパの土地は狭くて貧しく、乳と蜜の流れる地が待っていると語らせる。演説を聞いた群衆が「神がそれを望みたもう(デウス・ウルト)」と叫んだという有名な場面も、一部の記録にあるだけで、どこまで実際にあったことかは分からない。確かなのは、参加を誓った者は衣に布の十字を縫いつけたこと、そして遠征に加わる者には罪の償いが免除されると約束されたことである。

反響は、教皇の予想を超えた。翌1096年の春、決められた出発の日より前に、隠者ピエールと呼ばれる説教師に率いられた農民や貧しい人々の群れが、東へ歩き出した。その一部はライン川沿いの町々で、キリストの敵はここにもいるとして、ユダヤ人の共同体を襲い、多くの人を殺した。教会の指導者の中には止めようとした者もいたが、押しとどめられなかった。民衆の群れはコンスタンティノープルにたどり着いたものの、小アジアに渡ってまもなく、トルコ軍に打ち破られた。
本隊は、フランス、南イタリアのノルマン人、ロレーヌ、フランドルの諸侯がそれぞれ率いる軍だった。1096年の終わりから翌年にかけてコンスタンティノープルに集まり、皇帝アレクシオスに、取り戻したかつての帝国の領土は返すと誓わされた。1097年にニカイアを落とし、小アジアを横断し、1098年には長い包囲のすえにアンティオキアを手に入れた。だが、アンティオキアを手にしたノルマン人の諸侯は、そこを皇帝に返さず自分の領地にした。東と西の不信は、最初の遠征のうちに早くも深まった。
参加した動機も一様ではない。信仰、罪の償い、名誉、新しい領地、略奪。家を継げない次男や三男の騎士が土地を求めた、と説明されることも多いが、実際には遠征には莫大な費用がかかり、土地を売り、借金をして出かけた者が多かった。罪の赦しが約束されたことが、何より大きかったとされる。数万人が動いた。その多くは、戦いと飢えと病で帰らなかった。
1099年7月、生き残った者たちはエルサレムを攻め落とし、町の住民の多くを殺した(第1回十字軍のエルサレム占領)。彼らはここにエルサレム王国などの国々を建てる。ウルバヌス2世は、エルサレムが陥ちた2週間後にローマで死んだ。勝利の知らせは、死ぬまで届かなかったとされる。

当時、「十字軍」という言葉は無かった。参加した人々は、この遠征を「巡礼」や「旅」と呼んでいた。のちに西方の人々は、聖地への遠征を何度も繰り返す。1187年にはサラディンがエルサレムを取り戻し、1204年には、聖地へ向かうはずだった遠征軍が同じキリスト教徒の都コンスタンティノープルを略奪した(第4回十字軍のコンスタンティノープル略奪)。1291年、最後の拠点アッコンが陥ちて、聖地の十字軍国家は消える(アッコンの陥落)。
一人の教皇の呼びかけが残したものは、聖地の争奪だけではない。罪の赦しと引き換えに戦うという考えは、その後、スペインのイスラム勢力との戦いや、ヨーロッパ内部の異端や異教徒との戦いにも広げられた。異教徒との戦いを神が望む戦いとする言葉は、何百年にもわたって繰り返し使われることになる。