キュリロス
概要
兄メトディオスとスラヴ人に伝道し、そのために文字を作った。キリル文字に名が残る。
別名
コンスタンティノス
所属
東ローマ帝国関わったできごと(1)
スラヴ語への伝道AD863年 · 当人本文
キュリロスは、生前のほとんどをコンスタンティノスという名で生きた。キュリロスは、死の直前に修道士となったときの名である。827年ごろ、東ローマ帝国第二の都市テッサロニキに、7人きょうだいの末っ子として生まれた。父レオンは帝国の軍の中級の指揮官だった。テッサロニキの周辺には、6世紀以来バルカン半島に移り住んだスラヴ人が多く暮らし、兄弟は子どものころからその言葉を耳にして育った。兄が、のちに共に伝道するメトディオスである。
伝記『コンスタンティノス伝』によれば、少年は学問に秀で、都コンスタンティノープルに呼ばれて、当代一流の学者たちに学んだ。のちに総主教となる大学者フォティオスもその一人だったとされる。若くしてハギア・ソフィア大聖堂の図書係に任じられ、やがて哲学を教えるようになった。人々は彼を「哲学者コンスタンティノス」と呼んだ。
その学識は、帝国の外交に使われた。伝記は、イスラームのアッバース朝の宮廷に赴いて学者たちと信仰を論じたこと、また860年ごろ、兄とともに北のハザールの国へ使いし、ユダヤ教やイスラームの学者と論争したことを伝える。どこまでが事実かは確かめにくいが、途中で立ち寄ったクリミア半島で、ローマの初期の司教クレメンスの遺骨を見つけ出したという話は、のちのローマでの出来事につながる。
862年、中欧の大モラヴィア国の君主ラスチスラフから、皇帝ミカエル3世のもとへ使者が来た。我々の民はすでに洗礼を受けたが、自分たちの言葉で信仰を教えてくれる師がいない、という。モラヴィアには東フランク王国(いまのドイツ南部)の司祭たちが入り込んでいたが、彼らはラテン語で典礼を行い、教会を通じて東フランクの影響を広げていた。ラスチスラフはそれに対抗するため、遠い東ローマに目を向けたのである。皇帝は、スラヴ語を話せる兄弟を選んだ。

コンスタンティノスがまず手がけたのは、文字だった。スラヴ語には、ギリシア文字では書き分けられない音がいくつもある。彼は新しい文字を一から設計した。のちにグラゴル文字と呼ばれるもので、形はギリシア文字ともラテン文字とも似ておらず、スラヴ語の音に一つずつ文字を当てている。十字や円や三角を組み合わせたような独特の字形には、キリスト教の象徴が込められているとする説もある。
863年、兄弟はモラヴィアに着いた。福音書の朗読の箇所から訳し始め、典礼書や祈りの言葉を次々にスラヴ語にした。聖書の抽象的な概念を表す語はスラヴ語に無かったので、ギリシア語にならって新しい語を作る必要があった。こうして生まれた書き言葉が古代教会スラヴ語で、のちのスラヴ諸語の文語の土台になる。彼は弟子を育て、スラヴ人の司祭を養おうとした。
東フランクの聖職者たちは反発した。神をたたえてよい言葉は、十字架の上の罪状書きに記されたヘブライ語・ギリシア語・ラテン語の三つだけだ、と彼らは言った。コンスタンティノスは、雨はすべての人に等しく降るではないか、と反論したと伝記は書く。867年、兄弟は弟子の叙階を求めてモラヴィアを離れ、ヴェネツィアでも同じ論争を戦い、教皇に招かれてローマへ向かった。クリミアで見つけたクレメンスの遺骨を携えていたことが、ローマで大いに喜ばれた。教皇ハドリアヌス2世はスラヴ語の典礼を認め、兄弟の訳した典礼書を祭壇にささげた。
だがコンスタンティノスはローマで病に倒れた。死を悟って修道士となり、キュリロスの名を受けた。869年2月14日、42歳ほどで死に、ローマのサン・クレメンテ聖堂に葬られた。兄に向かって、故郷の修道院に帰らず、伝道を続けてくれと言い残したという。
メトディオスはモラヴィアとパンノニアの大司教として戻ったが、東フランクの司教たちに捕らえられ、2年あまり幽閉された。885年にメトディオスが死ぬと、弟子たちはモラヴィアを追われた。その一部は南の第一次ブルガリア帝国に逃れ、改宗したばかりの君主ボリス1世に迎えられた(ブルガリアの改宗)。弟子のクリメントらはそこでスラヴ語の教育を広げ、9世紀の終わりごろ、ギリシア文字をもとに、より書きやすい新しい文字が作られた。これが師の名を取ってキリル文字と呼ばれる。作った本人が作った文字ではない。

キリル文字は、のちにキエフ・ルーシの改宗(キエフ・ルーシの改宗)とともにルーシに伝わり、いまはロシア語、ウクライナ語、ブルガリア語、セルビア語など、2億人を超える人々が使う。グラゴル文字は、クロアチアの沿岸などで長く典礼に使われ続けた。1980年、教皇ヨハネ・パウロ2世は、キュリロスとメトディオスの兄弟をヨーロッパの守護聖人に加えた。ブルガリアでは5月24日が、兄弟とスラヴの文字をたたえる祝日になっている。